大阪旅行 西成散歩

十一月二十日(土)

 

 九時起床。今回の旅はガッツリ観光をするというよりも住むようにゆるく楽しむことが目標なので、当然今日の予定も特に決まっていない。

 が、話し合いの結果やっぱりこの近辺をもう少し探検したいよね〜ということに。


 正直、「西成に隣接してるこのへんって色々とどうなんだ……?」という思いもあったのだが、昨日の夜歩いた感じだとまあ、普通のサラリーマンや若い女性もけっこう見かけたし、親切なひとからもらった釜ヶ崎(=西成)ガイドマップにも「昏睡強盗やスリ、喧嘩、放火の類は発生することがあっても拳銃は出回っていません」って書いてあったので……。たぶん、死ぬようなことはないと思う。ここで生まれ育ったという小学生とも「そこら中にあるカラオケ居酒屋って普通に入っても平気なのかなあ?」「うんうん、全然大丈夫だよ〜」という会話をしたぐらいだ。

 注意や慎重さが必要なのは事実だし、あまり安易におすすめできるスポットではないんだろうけど、噂に聞くよりは安全な場所なのかもしれないと思った。


 それに、ここにしかない異世界感に興味を惹かれたのも事実だった。昨夜は新世界のあたりから動物園前一番商店街まで歩いたのだけど、あのダーティさはなかなか言葉で言い表すのが難しい。雑多でゴテゴテしていて薄汚く、独自の雰囲気と文化があり、日本にいる感じがあまりしなかった。いままでに行ったどんな街にも似ていない場所だ。

 私の恋人はバックパッカーとして何度か海外を旅したことがあるのだが、「インドを安全にした感じだね〜」「台湾感もあるな」などとしきりに述べては興奮していた。ホンマか?


 本音を言えばちょっと不安だけど、恋人はこの土地のことをかなり気に入ったようだったし、ここが日雇い労働者の方やホームレスの人にとって生活の場であることを留意した上で歩き回るぶんにはまあ大丈夫だろうと、最終的には判断することに。

 

f:id:shiroiyoru:20211120195425j:image

 

 というわけでとりあえず出発。宿の近くにあった『カフェ・ド・イズミ』でモーニングを食べた。二人合わせて九百六十円。千円いかないんだ、と思わず笑ってしまう。


 しばらくのんびりした後は店を出てぐるっと散歩。あんまり写真を撮ったりできないエリアも軽く歩いてみる。

 それで実際にいろいろ見ていると、怖いというよりはむしろ切なさや、場違いなところに来てしまったことに対する後ろ暗さを感じた。いや、人の生活を見て切ないという感情を抱くのもなんだかなあとは思うんだけど。


 聞くところによると最近ではこのあたりでも高齢化が進んできているらしく、その影響もあって以前より落ち着いてきているんだとか。そういう情報を知るとまた街の見え方が変わってくる。普通に考えたら喧嘩やトラブルがないのはいいことなんだけど、ある意味では活気がなくなってきているのかも……。


 観光気分できちゃいけないよ、というのもわかるんだけど、こうやって実際に歩いてみて何かを感じ取ったり物事を考えたりするのは決して悪いことではないよね、と恋人と話した。それをきっかけに何か人のためにできることを考えたりする場合もあるわけだし。

 

 私は仕事をすぐ辞めちゃう上に家出癖まであるから、男だったらこういう道(ホームレス)もアリだったのかもなあなんてうっすら思ったりもした。でも考えてみれば、女だからホームレスにはなれない、というところにもいろいろと問題を感じるよなあ。理論上はいてもおかしくないはずなのに、今回はまったく見かけなかった。


f:id:shiroiyoru:20211120195450j:image


 体力的にも精神的にも疲れてきたので少し道を戻って休憩。天王寺公園すぐ近くのアーケード内にある『喫茶ニューワールド』へ。珍しくいちごフロートを頼む。かわいい。

 

f:id:shiroiyoru:20211120195521j:image


 いろいろ考え込んでいるうちに元気がなくなってしまったので、チーズ入りたこ焼きを買って一旦宿へと戻る。八個入り五百五十円。一粒一粒が本当にでかい。これじゃあお金は足りても胃袋のほうが足りないよ〜。

 大阪に来て本当に不思議だと思ったのは、こんなに安くて美味しいものが溢れているのにもかかわらず、歩いてる人たちは全然太っていないってことだ。全員アメリカ人みたいな体型しててもおかしくないのに……。帰った後で体重計に乗るのが今から怖い。

 

f:id:shiroiyoru:20211120195538j:image
f:id:shiroiyoru:20211120195541j:image


 部屋で昨日もらったガイドマップ『釜っぷ!』(NPO法人こえとことばとこころの部屋制作)をパラパラ読む。勉強になります。

 

 心の調子が悪いので今日はこんなところで終わり。

 

大阪旅行 出発

十一月十八日(木)


 アルバイトの最終出勤日だった。本当は入って三日で辞めるつもりだったし、それほど思い入れもない仕事だと思っていたのだけど、いざとなるとやっぱりどうしてもさみしい。

 帰り際、いちばんお世話になったおじいちゃんに「たくさん働いてもらったね、次のところでも頑張ってね、おれはしばらくここにいるから、次が見つからなかったら戻っておいで」と言ってもらい、思わず泣きそうになった。「○○さんもお元気で」のついでに「長生きしてね」って言いたかったけど、「まだそんな歳じゃないよ!」って怒られるかもなあと思ってやめておいた。


 お互いに別れを惜しんだあと、最後の最後に「お疲れ様です」と言って外へ出ると、なんともいえない空っぽさを体の真ん中あたりに感じた。それは解放感でもあり、寂寥でもあるような。見かけない猫が裏庭の階段でじっとしていたので、思い出として写真を一枚撮っておく。

 この頃随分暗くなるのが早くなったなあ、なんてありふれたことを考えながら帰路に着いた。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221623j:image


 とはいえ感慨に耽ってばかりいるわけにもいかない。今日から十日間、恋人と大阪に行くことになっているのだ。


 帰宅するとすぐに干してあった洗濯物を取り込み、キッチンとメインの部屋を片付け、荷物のパッキングをはじめた。

 いつも思うけど、私は「やるべきこと」の処理が本当に早い。これは基本的なところに「どうせいつかはやらなきゃいけないことなんだから、さっさと終わらせてしまったほうが精神的にも時間的にも余裕ができていい」という割り切った考えがあるのが大きいと思う。また、もっと単純に、「やるべきこと」の存在に拘束されている状況が嫌いだ、という感覚の問題でもある。どうせのんびりするならなんの予定も入っていない状態でのんびりしたいし、そのために物事に優先順位をつけ、効率的に目の前のことを片付けいくのは気持ちがいい。まあ、そういう性分なんだろう。反対に、「やるべきこと」ではなく「やりたいこと」があるときはものすごくダラダラしてしまったりする。結局損なのか得なのかわからない。


 恋人の仕事が終わるのを待ってから二人で簡単に夕飯を食べ、お風呂に入るとすぐ家を出た。二十四時二十分新宿発の高速バスが出るまではまだ四時間近くあったけど、いてもたってもいられない気分だったので仕方ない。

 新宿の喫茶店で閉店間際までダラダラと本を読み、夜逃げ気分を味わいながら時間をやり過ごした。(ちなみに私は旅先に本を大量に持っていっては結局たいして読まずに後悔するタイプなんだけど、今回はpha『どこでもいいからどこかに行きたい』/五木寛之塩野七生『おとな二人の午後』/池上俊一『魔女と聖女 ヨーロッパ中・近世の女たち』をお供に連れてきている。)


 そこからさらに一時間ぐらいバスタ新宿の待合室で待った後、ようやく乗車。死ぬほど眠い、疲れた、しんどい、でもそのおかげでよく眠れそうだ。

 

 

十一月十九日(金)


 目が覚めた時には八時過ぎだった。予定通りなら目的地の梅田にそろそろ着く。高速バスの椅子は決して寝心地がいいとはいえないような硬さだったけど、限界まで疲れていたのもあり、思ったより熟睡できた。途中、トイレ休憩などの折に何度か目が覚めたものの、合間の眠りが深かったために体力はかなり回復している。これなら宿のチェックイン時間まで元気に歩き回れそうだ。


 と、そのときは思った……。


 私は大阪の地理に全く詳しくないのだが、梅田というのはどうも東京でいうところの銀座や丸ノ内に当たる場所らしく(恋人が教えてくれた)、バスから降りた瞬間に都会だなあと感じた。東西南北どっちを向いても綺麗な高層ビル群が立ち並んでおり、歩いているひとも品のいいビジネスマン風の人物が多い。

 通勤途中の人々とすれ違いながらいいかんじの喫茶店を目指してしばらく歩く。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221646j:image


 『喫茶サンシャイン』でモーニング。ホットコーヒーとチーズトーストのセットを頼んだ。分厚くて美味しい。

 近くの大阪駅第3ビルの中にある古書街が気になっていたので、開店時間までしばらくまったりする。バスを降りたときは大丈夫だと思っていたのに、座ってゆっくりしているとそのうちだんだん眠くなってきた。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221701j:image


 二人ともお腹が空いていたので、古書街を適当にぶらついたあとさっそくお昼ご飯を食べることに。そのまま第3ビル内の飲食店をぶらぶら見て歩いた。イメージ通り、基本的にどこも安くてボリューミーだ。あと、オムライスの上にハンバーグが乗ってることが多い。名物とはちょっと違うけど、そういう風土ってことなのかもなあと思ったのでそれを選んだ。出発前に新宿で飲んだロイヤルミルクティーとほぼ同じ値段だね、なんて言いながら、お腹いっぱいご飯を食べて幸せに浸る。いや、もう超眠いっす。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221718j:image


 梅田駅の地下(おそらく……)。噂には聞いていたけど、駅周辺がダンジョンみたいになってる。単にわかりにくいというよりは、面積が広く中に入っている店の数が多すぎる。これだけ地下街が充実してるんだから、たとえ地球に強い酸性雨が降り注いで人類の99%が滅亡したとしても、大阪の人たちだけは今日と同じようにいいもん食いながら楽しく生き延びるんだろうね、という話を恋人とした。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221739j:image


 疲れてきたのでぼちぼち予約している民泊へ。なんとあの有名な西成区のすぐ近くです。いろいろと不安はあったものの、調べた中でいちばん安いかったし、面白そうな飲み屋街も近くにあるし、危ない行動(夜一人で出歩く、観光気分でやばそうなところに近寄らない等)さえ取らなければ大丈夫じゃない?と恋人がいうので一応合意の上ここに決まったのだった。

 その町の治安を知りたかったら自販機の値段を見ろ、とはよく言うが(恋人談)、この安さね。ほんとに大丈夫なんですか?まあ、大丈夫なのかもしれないけど、うちのひとにはこういうところがあるよね。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221814j:image


 とはいえ部屋自体は綺麗だし、設備も良く、ベランダから眺める夕焼けもいい感じ。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221839j:image


 部屋でゴロゴロしているとそのうちいい時間になってきたので、腹を満たすため新世界方面へ繰り出すことに。写真は通天閣

 

f:id:shiroiyoru:20211119221857j:image
f:id:shiroiyoru:20211119221902j:image


 大阪といえば、ということで一軒目はたこ焼き屋にしておいた。甘ガーリック味のたこ焼きが美味しい。

 あちこちに射的屋さんやレトロなゲームセンターがあり、日常的に祭り気分を味わえるのがいいなあと思った。

 

 二軒目で串カツを食べて〆。

 

f:id:shiroiyoru:20211119221954j:image
f:id:shiroiyoru:20211119221947j:image
f:id:shiroiyoru:20211119221940j:image
f:id:shiroiyoru:20211119221943j:image


 ちょっと散歩してスーパー玉出で軽く買い出し。めっちゃかわいい。


 このへんにはどうもカラオケ居酒屋という独自の文化があるらしく、意味のわからないぐらい大量にその手の店が立ち並んでいた。シンプルに気になる。明日以降行こうね〜という話を恋人とした。

溶ける顔

 夕飯を食べ終わったあと、恋人によじ登ったりすべり落ちたりしながら過ごしていて、ふと「肉体的な依存があるな」と感じた。恋人と出会ってから私は平日夜の時間を過ごすのがずいぶん下手になった気がする。占いの勉強をしたり、本を読んだりと、やりたいことはたくさんあるはずだし、明るいうちは確かに「今日こそは」と思っているのだが、家へ帰りつく頃にはすっかり忘れて恋人と接触することにすべての神経を使いこんでしまう。私は恋人の体をどんなに食べても決してなくならないクリームパンみたいなものだと思っていて、退屈を感じるとたいしてお腹が空いてなくてもガブガブガブガブかじりつく。出会って一年とちょっと、一緒に暮らし始めてから半年ぐらい。ずっとそんな感じで過ごしてきた。

「こうやっていると確かに落ち着くんだけど、暇なんだよね」

「なにかをやりたいって気持ちより、こうしてただくっついているだけの時間を優先したがるのってやっぱり何かあるのかな?」

「そこに気づかないと永遠に根本解決できない気がする」

 私がそう言うと恋人は、

「不安なんじゃない?」

「不安だから人と接触してないと落ち着かないんだよ」

「俺が好きだからくっついてるわけじゃなくて、温もりをもらえるなら本当は誰でもいいのかもしれない」

 と返すので私は物凄い衝撃を受けてそれからしばらく考え込んでしまった。もしかして私は恋人のことがそんなに好きじゃないのか?いや、そんなはずないだろう。

 だけど私があまりに大きな不安感を抱え込んでおり、それが原因で人肌を求めていることも事実だと思った。

 

 

 私は自分が自分であることに自信がない。実は。あまりこれという意見がなく、反対されても押し通したい自我みたいなものを持っていないため(ほんとか?)、誰かといると頻繁に自分は他人の鏡像でしかないと感じる。その場限りの感情や感覚だけが私に私を与えているが、そこに決まりきった形はない。輪郭が掴めないものに感情を抱かれるのは意味不明で恐ろしいから人に好かれるのも嫌われるのも同じくらい苦手。透明になりたい。誰にも見られたくない。認識されると余計に自分がわからなくなる。

 

 そんな感じだから恋人がどこで私と他者を区別しているのかもわからない。その上でいっしょにいようと思った理由はもっとよくわからない。愛情表現という形で何度も説明を受けているはずだがいつまで経っても確信が持てない。不安のあまり襤褸が出ることを期待して昔の彼女のことを異様に気にしたりする。知ったところで目の前にある愛情が減ったり増えたりするわけではないのだから、意味がないのに。

 

 

 一日中自分の気持ちと向き合った結果、嫉妬や依存心といった感情が持つ複雑さにようやく気が付いた。私はどうも、恋人に対する愛着と自分の中に元からある根源的不安を混同して捉えていたらしい。この両者はとても自然なかたりで混ざり合い、ひとつの不快な感情として意識に昇ってくることがしばしばある。でも、本来は別のものだったのだ。

 

 そう気が付いた瞬間、私はこれまで恋人にとってきた様々な態度を申し訳なく思った。自分の不安感情に巻き込んで傷つけたり迷惑をかけたり否定したりしてもいい他者なんてどこにもいない。それで人が思い通りになることを望んでもいけない。支配と愛は違う。本当に誰かを大切にしたいと思うのであれば、相手の心と自分の心を区別した上で双方に敬意を払わなくてはならない。

 

 好きなところを好きと思うだけのラブでありたい。

 

 

 以上の考えを踏まえた上で恋人に「やっぱり誰でもいいわけではないと思う」「好きだから一緒にいるんだよ」と伝えると「そりゃそうだよ」と言われた。なんだよ。それに、「でもね、不安でもいいと思うんだよね。人の心にはデコボコがあって、怒りの感情が大きい人や悲しみの感情が大きい人がそれぞれいるでしょう。さかなちゃんの場合はそれが不安ってだけの話だと思うんだよね」とも。

 

 それが嬉しかったのでその日はたくさん本を読めた。

 

 

 恋人と『ゴーン・ガール』をいっしょに観たら「結論、彼女のことは大切にしろってことだね」と言っていて、なんていい男、と思った。

嫉妬の輪郭

 言葉で感情に輪郭をつけてあげると、いまにも噴火しそうな頭が多少はマシになる。



 あれは高校一年生の秋だった。進学説明会だったか、校外学習という名の遠足だったかは忘れたが、とにかくその帰りに、当時(一瞬だけ)付き合っていた男の子のお母さんと偶然顔を合わせたことがある。それでちょっとびっくりしたのは、その人というのが、かなりお洒落で可憐な女性だったからだ。彼のお母さんは栗色の長い髪の毛をくるくるに巻いていて、その上に古いフランス映画に出てきそうなまあるい帽子を被り、裾にフリルのついたトレンチコートを羽織っていた。私と同じ少女趣味で、且つ、センスがよく、華奢な体から品の良さが滲み出ている。

 私が好きな男の子は休み時間に教室で堂々とギャルゲーをやっているようなタイプだったし、けっこうふくよかなほうで、眉毛も太かったけど、同時にいつもいい匂いがして、肌はうさぎのように白く、声の調子は穏やかだった。数学がよくできる子でもあった。


 それで、そのときはじめて「こういうことだったのか」と思ったのだった。

 

 

 それ以来、私は自分が好きになった男の子や付き合った人の母親を見てガッカリしたことが一度もない。



 どうしようもない嫉妬で苦しんでいて、それを直接恋人にぶつけることもできず、ひとりで悶々としながら人が人を所有しようとすることについて考えていた。これまでの人生を振り返ってみると、私はそのことについてかなり否定的な態度を取ってきたように思う。


 子供の頃、私がいちばん仲良くしたいと思ってた女の子には別に親友がいた。二人はいつも一緒で、仲良さそうに肩を寄せ合い、しょっちゅう小声で内緒話をしている。二人のことも含めた五人とか、六人とかで遊んだり、グループを作ったりすることはあるけど、どんな時でも彼女たちは必ず最小単位の二人としてそこに存在していた。二人の周りに存在する、どうやっても突破することのできない警戒線みたいなものを認識するたびに、「私は疎外されている」と感じていたが、そこは田舎の小さな学校で、他に交流関係を求めるのは到底無理な話だった。

 私は仕方なく「自分は誰かの一番になれない」と打ちのめされながら育った。


 高校生ぐらいになると他にもっと気の合う友達ができたり、彼氏ができたりもしたけど、やっぱり私は子供の頃受けた些細な傷を引きずっていて、長らく誰かに「いちばん好き」をあげることができなかった。酷いときでは親友に「さかなちゃんがそうじゃなくても、私はさかなちゃんのことがいちばん好きだよ」と言われて「友達に順序をつけようと思ったことがない」と返したことさえある。それはさすがにあとから物凄く後悔したし、引きずったのだけど、でも実際、気持ちとしては素直なものだった。

 私は自分が誰かに「いちばん」という態度を取ることで「いちばん」以外のひとが傷つくのは嫌だったし、いつか「いちばん好き」に「いちばん好き」を返してもらえなくなるかもしれないと想像するのも嫌だった。「いちばん」をめぐる感情やそこから起きるいざこざにうんざりしていたのだ。


 そういうこともあり、「いちばん好き」を交換し合い、他の人間に奪われないよう気を配り合う「恋愛」という対人関係のパターンには成人してからもなかなか馴染めなかった。

 人を好きにはなるし、告白したり、告白されたりということも年一ぐらいでやるのだが、お互いの気持ちがわかったところでなんらかの権利を得たように感じることができないのだ。そういう態度は傲慢だと思っていた。付き合ったからといって相手が自分のことを「いちばん好き」とは限らないし、別にそれでも構わないように感じる。「全部あげる」「全部ちょうだい」は言うのも言われるのも厚かましい。「好き」に「好き」を返してもらいさえしたらあとはなんでもよく(結局、深層心理においてはよくなかったし、だからこそ耐えきれず別れてきたわけだが)、デートでどこに行きたいとか、イベント事をいっしょに楽しみたいとかいう要望を相手に伝えたり、疑問や不満を直接ぶつけたりすることができないまま(そうしてもいい"権利"があるとは到底思えないので)耐えきれなくなったら自分から別れを切り出す、ということを昔はほんとうによくやっていた。相手からすれば意味不明だと思うが、私の中では筋が通っている。私はあなたが好き、あなたも私が好き。でもそれはそれだけの話であって他に変なオプションがついてくるわけじゃないし要求されてもどうしたらいいかわからなくて困る(だって私には他にも仲良くしたい友達がたくさんいるし優先したい趣味もいろいろあるから)。



 そういうふうに考えていた頃を思うと、嫉妬に狂っている現在の自分のことがとても不思議だ。所有欲も独占欲も、実際に感じるまでは否定的に扱っていた感情だった。


 今の恋人に出会う以前、私は自分のことをアセクシャルなんじゃないかと疑ったり、ポリアモリーの可能性について考えたりもしてきたが、どうも「そういうわけ」ではなかったらしい。過去のトラウマを拗らせて、そこからドミノ倒しみたいに全部がうまくいかなくなっちゃっただけ。


 所有欲を感じるほど深い仲になった異性はおそらく彼がはじめてだし、それを許してくれる寛大な愛にはいつも感謝している(反省もしている)。



 はっきり言って私は今の恋人に対して激しい独占欲を抱いている。いっしょにいるときに他の女の子を褒められるとキレるし、さみしいときにかまってもらえないとすぐ拗ねる。いつか他の人にとられたらどうしよう、と心配するだけでなく、過去の彼女や初恋の人のことも大嫌い。なんなら私の恋人にかわいいと思われたことがある女性は全員死んでほしいと思っている。そのかわり、私も恋人以外の男性には必要以上の興味を抱かない。


 十五歳の頃の頭になって冷静に考えてみると、これは相当に変な話だ。なぜ私は「そうしてもいい」「そういうふうに思ってもいい」と頭から信じられるのだろう?


 浮気は行動だからまた話が変わってくるが、特定のパートナー以外の異性に魅力を感じてはいけないとか、過去の恋人との思い出を捨てろ、というのは実はけっこう無茶な話だ。

 もし私が根っから恋人以外の男性に全く関心を抱かない人間だったら、これまで他の異性を好きになったり付き合ったりしてきたことに説明がつかないし、コンピューターみたいに都合よく記憶を操作して「なかったこと」にすることもできない。


 また、仮に今の恋人と別れたとして、その後は一生独り身で過ごすのかと聞かれればそうとも思えなかったりする。きっと、誰かしら他に魅力的な人を見つけて互いに心や体を許し合ったりするはずだ。私はすてきなお母さんに育てられたすてきな男の子を見分けるのが上手いから、これからの恋愛にも期待が持てる。それにおそらく、だとしても今の恋人との思い出は死ぬまで頭に残り続けることだろう。なぜなら、それは「そういうもの」だから。


 これらの「自然な事実」は私以外の多くの人間(恋人も含む)にとっても当てはまることだと思う。

 で、それは果たして本当に「酷いこと」なんだろうか?


 こうして現在から離れてもっともっと長い線の端っこから自分自身を捉え直すと、昂っていた感情がみるみるうちに冷めていく。

 「私だけを見て」「いちばん好きをちょうだい」「要らないことは忘れて」これらは全て感情としては自然なものだが、欲求としてはかなりの無理があるし、ぶつけられる/ぶつけられるのは理不尽だ。



 数年前までは人に執着できないことで悩んでいた私が、今では強すぎる嫉妬心に悩まされている。せめて過去のことについてはそれはそれ、これはこれで考えられるようになりたい。

第六十七回角川短歌賞落選作『吹きさらしのクマ盗難計画』

 遺家族と呼ばれ応える三人の子、三人の父、霊前の海老

 

 「別の人のロイヤルベビーも産みたいと言われてみんなフラれたみたい」

 

 季節来遊魚のように棲むことが得意な女性だったと聞いて

 

 妹の定義が欲しい妖怪の名前にずいぶん詳しそうだね

 

 馴れ初めをはじめて知ったそれは金色に輝く雛壇の落下

 

 長生きに寿司が効くって耳慣れぬ教えはたぶんインド哲学

 

 惑い箸とがめるほどの仲じゃなく眼鏡の縁に興味を変える

 

 アマチュアの天文家名乗る少年にファンタグレープ奢って寄越す

 

 花冷えの気配の中の那須旅行 家族写真は複製されて

 

 「こんなんじゃダメだよママは焼き林檎供えられてもぼくら認めない」

 

 放火罪よりはマシだと出来立ての身内に言われ幽体となる

 

 お猪口からジンジャーエール溢れ出し岬の方へ逃げたいのかも

 

 ウィスキー・ボンボンあげる菓子盆の主力選手の話をしよう

 

 窃盗をポップに誘われ婉曲に断るときのタイ語知りたい

 

 見取り図にフィッシュナイフを突き立てる役は確かにやりたかったな

 

 王様の代理人的顔をして熱弁ふるうミニチュア仏陀

 

 名産の酸っぱい果実並べ立て片っ端から爆破するという

 

 まかせてと有害図書にしおり挿す左手首にりすのスタンプ

 

 「仏壇にこれがあったらクールだと私も思う。キャプションも要る」

 

 少子化の世に生まれ出て箱入りにされるでもなく星盗む定め

 

 母親のサブスクリプション解約し所有欲とは昭和の流行り

 

 つるぴかな親父だけどもミニカーを買ってもらった覚えとかある

 

 「終わったら手花火しよう。サイレンが鳴る美術館の緑の庭で」

 

 罪状を西洋カルタで占って受験のこともおまけされたい

 

 無軌道な歩みを好む血筋だと会話じゃなくて身体で気付く

 

 ちょうどいいチェーンソーなら家にある氷を切って風呂に隠すか

 

 喪主が来てお開き告げるこの会の主役は故人じゃなくて各自

 

 ばあちゃんの匂い袋をこじ開けて数式書いた紙入れ返す

 

 霊光がモールス符号発信しテレビに出たら録画するねと

 

 背開きにされた金魚を池にやる等価の命宿る手青い

 

 春の風熱った体に心地よくソウルメイトがどこかで笑う

 

 人権について作文書く課題出てたらネタにしてた黄昏

 

 温め鳥おなかの中に我らいて腐り果てても変わらずふかふか

 

 ネグリジェを羽織って帰るそのひとの配慮のなさに母の面影

 

 変声期きたら遊ぼう難読の漢字を何個も忘れた頃に

 

 「みなしごの控え室だね火葬場は。パパ、お兄さん、酒呑童子も」

 

 前借りの梅干飴を転がしてどうしてこんな長い家系図

 

 入念にやるなら棄てるべき炎クリアケースにはさんで仕舞う

 

 倒産が予定されてる我が家には床屋のくるくる、あと栗がある

 

 別にずっとふたりだったろ泣くなって中華料理でビールをやれよ

 

 ルビーには魔力があって記念日にデートで焼いた山のようと父

 

 レトルトの離乳食さえ思い出か空のパウチのスクラップ帳

 

 留守電にプールの音が入ってて音楽室の床が恋しい

 

 永日の終わりに篭るキッチンで水切りラックに心置きたい

 

 今朝まではホットとしての自意識があった深煎り珈琲流す

 

 こそ泥が三角窓から覗いてるような気したが絵本の投影

 

 熟睡の合間見る夢図に描いて肺循環の改革謀る

 

 洋酒瓶ラクトアイスにかたむけてなんにもでない 春の不具合

 

 よく脱げる靴下だけをつけ狙い軽犯罪のトレンドになる

 

 ノンセクト・人類として今日あったことはもらさず隠匿しよう

さかなちゃんのすべて

さかなちゃんのからだは

海を知っている 深く深く 潜ったこともある

さかなちゃんのからだは

シンガポールの夜を 一度 通過したことがある

さかなちゃんのからだは

ほんのすこしのコーヒーで いつでも おかしくなれる


でも あなたは知らなかった


さかなちゃんのからだが

ついさっきまで 部屋の中央で旋回していたことを

さかなちゃんのからだから

青い石が飛び出して 床で砕け散る瞬間を

さかなちゃんのからだに

そっと埋め込まれている あのこの瞳を その場所を


さかなちゃんのすべて とは

いつだって はじめましてのからだ

そこには何も書かれていない


ただ あなたが見たままのからだ

『君は永遠にそいつらより若い』を観た

※ネタバレあり。原作未読。

 

 

 

 

・ホミネが残したアンケート用紙の落書きに、イノギが勝手に色を塗ったのがよかった。人間の思い出や記憶というのはずっと形を変えないままそこに在り続けるわけではなく、その断片に偶然触れた他人の手によって次々新しい意味合いを加えられていくものなんだろうなあ、と思ったし、そういう示唆を感じた。イノギとホリガイの間にあった心の交流にもそういった一面が含まれていたように思う。


・「そのときそこにいれなかったことが悔しい」で繋がっていく関係が切なくて、でもよかった。他人が持つ傷に引き寄せられる感覚は自分も身に覚えがある。ラストの不法侵入はちょっと吃驚したけど、これ以上「悔しい」思いをしないためにも今苦しんでる子供を救いたかったんだろうなあと思って納得した。


・処女であることに関して「人の人生に介入できない」「自分には欠陥がある」と吐露するホリガイを見て、若い頃の自分を思い出した。二十三、四歳ぐらいまでまったく同じことを考えながら生きていたし、実際処女だったので。本人からしたらかなり本気で思っていることなんだけど、こうして客観的に見てみると、欠けてるとか、普通じゃないとか、そういう話でもなかったんだろうなあと救われた心地がした。それに、ホリガイだって童貞で悩んでる後輩には「まだ二十歳じゃん」って言えたのにね。きっとみんな、自分のことだとわからなくなってしまうんだろう。


・ホリガイとイノギの性行為に関しては正気唐突さを感じた。でも、冷静になってみるとそこまでわからない展開でもない。私はおそらく同性との性行為にそこまで抵抗がないほうなのけど、その感覚をまんま映像にするとこれだなあ。私の中で心理的な親密度と身体的な親密度はかなり深く関係し合っており、「心が親しさを感じる相手と肌で触れ合う/触れ合いたい」という感覚はかなり自然なものなので…。性欲や性嗜好に先行する形で「その感覚」があるため、「気づかれないようにがんばっていたこと」を直接打ち明けたほどの相手であれば、たとえそれが同性であっても性行為に至ってそんなにおかしくはないなあと。まあそういうの関係なく単純にイノギがホリガイのことを好きだったとかそういう話なのかもしれないけど…。でもやっぱりあれは恋愛とかっていうより、二人の親密さの天辺を象徴するような行為だったような気がした。

 

・「ホリガイ、眉毛黒かったね」と一緒に観に行ったひとと話した。就活終わったし、とりあえず髪だけ派手な色にしてみたけど、服装とかは別に今までのままで、女っ気もゼロだし、いっつもジーンズにスニーカーだし、自虐的な姿勢や気持ちは抜けないし、その反面、計算されつくしたかわいい女の子をみると安心する、そんなホリガイが好きだ、と思った。

 

・「とっ散らかったことしか言えない人間なんですよ、自分ってやつは」と、言うところまで語順が逆になっちゃうのもよかったね。