恋愛と破壊がだいすき

 布団の中で泣きじゃくりながら、なるべく楽しいことを考えようとしたのですが、どんなにがんばってみてもあのひとのこと以外は何も浮かんでこず、余計につらくなるだけでした。楽しいことというのはたいてい他人とするものですし、最近の私にとっていちばん身近な他人といえばあのひとでしたから、これは当然のことです。

 そこで私は方向性を変え、うつくしいものについて考えてみることにしました。

 楽しいことをするときとは違い、うつくしいものに触れようとするとき、私は極力ひとりでいるようにしています。心の内が孤独であればあるほど、自分の対峙している美が心に染み入るような気がするからです。それに、何かを密に観察し、その物とある種の交流をはかろうとするとき、自分と対象物以外の存在は全てノイズだと捉えて切り捨てようとするのが、当然の態度だという考え方もあります。そのぐらいでないと、集中している状態だとはとても言えないと思うからです。そして、私は中途半端な気持ちでうつくしいものに触れたりしたくありません。

 こういう偏屈な人間にとって、うつくしい何かを誰かと共有するというのは、とても特別な心の働きがあってこそ成り立つ行為です。それは対象物と自分との間に広がる大切な世界に、まったく異質な誰かをお招きすることに他なりません。またそれは、共有相手から見ても同じことが言えるでしょう。

 それを許してもいいと思えるほどの信頼関係が、まだあのひととの間に芽生えていなかったことを、私は天に感謝しなくてはなりません。何よりも尊いはずのものを、わざわざ汚さなくて済んだのですから。

 SPANK HAPPYの歌詞、岡崎京子の漫画、デヴィット・フィンチャーの映画のラスト、高野悦子の日記に書かれていた言葉たち、先生の横顔、ひとりで見にいった冬のイルミネーション、東京の夜、プラネタリウム、絵画、いつかひとめぼれした陶器のお皿……、そういったものの存在についてのみ思いを馳せている間、ほんの少しだけ、荒れ果てた心が慰められます。うつくしいものと過ごす時間を大切にしてきて、本当によかった。

「あなたの言葉はほんとうに心にひびいてきます」と言ってくれる女の読者たちは申し合わせたように、みんな働いていて自立した精神の強い人たちである。  その癖、男が好きで、男に不自由はしないけれど、思い切りがよく、べたべたせずに、男ののろけ話をしている。  振られた男のことも大して悪く思っていないし、いやになった男のことも尊敬するところはしている。男の悪口を並べ立てるが、実際には結構機嫌をとっている。 (女の男性論/大庭みな子)  好きな作家の著作からの引用です。はじめてこの文章を読んだとき、私は「この『読者たち』のひとりとして数えられるような人間になりたい」と切に思いました。そして実際、そのように努力していくしか道はないような気がしています。

 失恋の痛みに打ち震えながら、そんなようなことを考えてしまう午後なのでした。