被服という詩、着ることで脱いでゆく

 おしゃれなひとになりたいです。というか、全身が詩みたいなことになっているひとになりたい。つい手にとってしまう色、なんとなく惹かれる方角、国、味の好み、心地いいと感じる手触り。服装を通じて、そういうものが全部表にでてしまっているひとに対し、強い憧れがあります。衣服に身を包まれながら、同時に、剥き出しの魂で在ろうとすること、あるいは、密度の高い祈りを体全部に引っさげながら生きること。

 服に限らず、何か物を買うとき、私はつまらないことをたくさん考えながら選ぶのが好きです。例えばその対象が鳩のブローチだったなら、「鳩といえば平和の象徴。また、臆病な鳥の代表格とも言われる。それを胸につけて毎日をやり過ごすというのは、密やかに行われるあまい自虐という感じがしてすてきだな。色が白であることによって可憐さ、か弱さのようなものが加わるのもよい」というように。

 一緒に買い物をしていて楽しいなと感じる友達は、けっこう、このへんのことを理解してくれるひとが多い。物を単なる物以上の存在としてみる、ということの意味。自分にしか通じないかもしれない祈りを込めて、その物を愛す、ということを自然体でやってのけるひとが好きです。

 そしてそういうひとはおしゃれさんである場合が非常に多いのです。でも、そうじゃないケースも多々あります。

 大学生の頃、同じサークルに、いつ見てもヨレヨレの服を着ている男の子がいました。挙動が何となく怪しく、うつむきがちで、不潔というわけではないのに、どこか常に生乾きっぽいような印象の子でした。

 当時、私はいまよりもずっと太っていて、メイクだって下手くそで、とても他人の身なりに文句をつけられるような有様ではなかったのですが、そんな人間から見ても、彼がおしゃれという言葉から程遠いところにいることはよくわかった。そしてだからこそ、異性の苦手な私でもそれなりに気安く口をきくことが出来たのでしょう。しかしあるとき、私はそんな自分の絶望的な思い違い、傲慢を知るに至ります。

 彼が何気なくこんなことを話してくれたのです。

「自分が好きなものを着るのって結構大切だよ。そういうやり方で自己主張することによって、同じものを好きな人が周りに集まってきたりするし。そこを隠してもあんまり意味がないんじゃないかな」

 よく見てみると、ヨレヨレのTシャツには大きくウルトラマンのロゴがプリントされていました。そう、彼は熱心な特撮オタクだったのです。

 ヨレヨレのウルトラマンTシャツを着ること自体は、おしゃれな行為だとはいえないのだと思います。でも、そこには密度の高い思い、のようなものが確かに息づいていて、それは傍からみてもわかるほどだった。お気に入りのフィルムを何度も繰りかえし見るように、お気に入りの名場面について何度も繰りかえし語るように、そのTシャツを幾度となく着てきたのだと思うと、私は感動しました。

 特撮のことはよく知らないし、よく知らないことばかり早口で話す彼のことは正直苦手でしたが、この件についてはいまだに覚えています。というか、たぶん死ぬまで忘れないと思います。そしてこのことを思いだす度に、私の生き方はなんてダサいんだろう、と知って絶望するのです。中途半端に好きな服、似合わない髪型、妥協の末に選んだアクセサリー、嫌いじゃないけど好きでもない、でもまあダサいとは思われないだろうという、微妙なラインのなにかたち。そういうものでいっぱいの生活は、もう嫌なのです。

 私も、彼みたいになりたい。あるいは、憧れのあの子みたいに。魂がありのままにあらわれてしまうような服の着方を、私もいつかできるようになりたい。

 好きな友だちと会うとき、私はいつも最大限のおしゃれをしていくようにしています。その行為に一種の誠実さが宿ると信じているからです。髪を丁寧にストレートアイロンで伸ばし、自分の顔にいちばん栄えると思うメイクを施し、服を脱ぐ予定もないのに、下着まで上下で揃えて。

 しかしその一方で、初対面のひとと会うときに、わざとダサめの服を着ていったり、化粧を薄めにしてみたりすることが、よくあるのです。これは自分に対する嘘です。単純に手抜きをしているだけ、というふうにも見えるでしょうが、でも、違います。私は自分をちいさくみせたい。だって、自信がないから。確かに一時期に比べれば痩せたほうだけれど、だからといってスタイルがいいわけではないし、顔もへちゃむくれだし、何より、自分にセンスがないことはよくわかっている。真摯に物を選ぶことと、その物自体が本当にイケているかどうかはまた別の問題だということを、私はしっかりと知ってしまっているし、それはもう、どうしたって消せない感覚だと思います。

 本気を出してダサいと思われるよりは、自分でもダサいと思う恰好をしてダサいと思われた方がずっといい。そういう考えを、いまだに捨て切ることが出来ません。そういうふうにしたほうが、受けるショックが少なくて済むからです。できるだけ野暮ったい人間だと思われるために、一度も髪を染めたことがないと言ってみたり、コンタクトを試したことがないと話してみたり。そういうつまらない嘘をいままでに何度ついてきたか、わかったものではありません。

 真におしゃれなひとになりたいのであれば、こういったことはもうやめなくてはいけない、とふいに思いました。気を抜くことはあっても、手を抜くような真似はもうしたくありません。それは対面する相手や、自分自身に対する不誠実になり得るからです。おしゃれとは己の魂に対する誠実さのことをいうのだと思います。

 今日、とってもすてきなコートを買いました。少し茶色の混じったような白と、襟元のレースがかわいくて、もう、ひとめぼれです。平均よりも多めについているボタンに精神的なあたたかさを感じます。どこをどう見ても可憐で、帰ってきてからずっと眺めているのですが、飽きません。このコートに見合う人間でありたいです。