限りなく赤に近いピンク

 夏に買ったきり、ずっと使わずにとっておいたJILLSTUARTのリップブロッサム50番を、はじめて自分に塗ってあげた。限りなく赤に近いけど、でもぎりぎりのところでピンク、といった感じの色合いがとてもかわいらしく、見ているだけで胸がときめく。グリッターがかなりギラギラしているため、普段使いには向いていなような気もしたが、今日は特別な日なのでよしということにした。

 正直なところ、この歳でJILLSTUARTというのはどうなんだろう、という気がしないでもない。幼すぎるという意味ではなく、むしろあまりにもターゲットの年齢層にハマりすぎているように思うのだ。コスメに限らず、身にまとうものというのはちょっとだけ背伸びをしながら買うのがいちばんいいと考えている。わざと身の丈にあわない物を買って、それに見合うような人物になろうと思考錯誤することで人生に彩りが加わる、そういう存在としてファッションがあるような気がしていて。

 だがそれでも私はJILLSTUART特有の、どこかおもちゃっぽいようなパッケージが大好きだ。母親の化粧道具を欲しがって、かわりに子ども向けの青いアイシャドウを買い与えてもらえた時の、あの喜びを思い出せるから。

 いつでも塗り直せるようにとコートのポケットにリップを隠し持つと、それはやはり詩になった。

 今日は高校の同級生のKさんと遊んだ。二、三年ほど空白期間があったため、結構緊張したが、行ってよかったと心底思う。

 ひさびさに会ったKさんは、以前と比べてだいぶ最高な感じになっていた。まあもとから最高ではあったんだけど、輪をかけてというか。簡単にいうと、昔より格段におしゃれでかわいくてきれいで尚且つたくましくなっていた。

 本人も自分自身のことを「前より気が強くなった」と言っていて、そう思った具体的なエピソードなどを聞いていると、「もしかすると、今日は喧嘩別れで終わるのかも……?」と不安に感じたほどだ。

 でも結局そんなことはなかったので、よかったなあと思う。かなりひさびさに会う友達ということで、ネズミ講や宗教の勧誘である可能性が念頭にあったらしいし、もしかするとあれは一種の威嚇行為だったのかもしれない。

 そんなKさんと話をしていて思ったことだが、私は逆に、ずいぶん人として丸くなった。昔はもっと自己中心的な人間だったような気がする。愛想がいいとか、穏やかでのんびりしているねとか、そういうことばかり言われるようになったのはけっこう最近のことだ。

 それってきっと悪い変化ではないし、そんな自分のことを気に入ってすらいたはずなんだけど、パワーアップしたKさんを目の当たりにしたことで若干、気持ちが揺らいだ。私ももっと強い女になりたい、なぜならそのほうがかっこいいから。

 だけどそもそもの話、私が丸くなるきっかけを与えてくれたのは、確かこのKさんだったはずなのだが……。

 高校のとき、私のちょっとした言動が原因で、クラスの空気が壊れてしまったことがあった。私はすぐ自分の失敗に気が付いたが、やってしまったことは仕方がないし、もうどうすることもできない。ただただ狼狽えるばかりであった。

 その様子を近くで見ていたKさんに、急場をしのいだあとでこんなことを言われた。

「多数決とかで手をあげるときはまずまわりの様子をよく見て、それからより人数が多い方につくといいよ」

 目から鱗とはまさにこのことであった。それまでの私といえば、多数派に属する人たちはたまたま多数派になっただけなのだとばかり思い込んでいたのだ。多数派でいようという明確な意思をもってして多数派でいるひとたちの存在なんか、想像したこともなかった。いま思い返してみると、人として当然持っているべきなにかが欠落していたとしか考えられない。

 周囲の流れ次第で自分の立ち位置を変えてもいいのだとか、決断を出す前には十分な観察が必要なのだとか。一度そういう発想を持ってみると、なんだか世の中のいろんなことがよくわかるような気がした。私は自分に空いている穴が思いの外大きかったことを知ったし、でも逆に、そこから生きるのが楽になった。

 それで私は彼女についていこうと決めた。

 Kさんは人間関係の何たるかをよく心得ている人で、そのへんがかなり不器用な身としては、ただ一緒にいるだけでも学べるところが多かった。たぶん、無意識のうちに影響された部分も相当ある。 

 もし十代のうちにKさんと出会っていなかったら、私はもっと違った人間になっていただろうなあといまでも時々思う。それが絶対的にいいことだったのかはわからないけれど、少なくとも私は、Kさんに出会う前の自分より出会った後の自分のほうがずっと好きだ。

 Kさんはあの一件のこと、覚えてるだろうか。たぶんだけど忘れられている気がする。なんていうか、指摘の内容があまりにも当たり前のことすぎて。

 私が十六歳のときにはじめてみつけて、そこから六年ぐらいかけて徐々に習得していったものを、Kさんはあの当時すでに身に付けていたのだと思うと、ちょっと気が遠くなる。なんだかいつになっても追いつける気がしない。

 そういう事情があったため、私は内心、「ひとにはパステルカラーをすすめておきながら、自分は心に豹柄を着るだなんて……そっちのほうがかっこよさそうだし、なんかずるい」などと思ったりもしたのだが、会話のエンジンが温まる前だったので本人には言わないでおいた。

 渋谷でご飯を食べ、そこから下北沢に移動して古着屋めぐりをした。最近の恋愛のこととか、大根仁の映画のこととかを話した。

 ものすごくかわいいワンピースを見つけて、ああこれ絶対私に似合うだろうな、と思いながら試着してみたら、なんとサイズまでぴったりだったのが、よかった。それはもう、店員さんの「よくお似合いですね」というお世辞に対して「本当にそうですね」って返しそうになったぐらい。運命だと思った。しかも値札を見てみたらこれがかなり安くて。逆ギレのような感じで「なんで安いの! 買っちゃうじゃん!」と言ったら、Kさんに笑われた。自分でも笑った。そういうことをしていると失恋の傷が癒えていくような気がした。

 新しいコートを買うか否かで迷っているKさんをそそのかす……背中を押すのも、楽しかった。

 鏡の前のKさんに向かって「買わなかったことによって後悔した物たちのことをひとつひとつ思い出してみなよ、私そういうの全部覚えてる、絶対買ったほうがいいって」と言い残し、ひとりで店の中をぐるぐるまわりながら、一年ほど前に地元の雑貨屋で見かけたうさぎのぬいぐるみのことを思い出したりした。やわらかな表情のまま目をつむり、胸の前で手を組み合わせていたあの子、本当にかわいかったな。祈りをささげた姿勢のまま造形されてしまうのって、いったいどんな気分なんだろう。つらくはないのかな。値段は確か2500円ぐらいだった気がする。いまだったら絶対買うけど、そのときは金欠気味で手が出せなかった。きっともうとっくに売り切れちゃってるんだろうな。

 そんなことを考えながらもう一度Kさんのところへいってみると、よし、といった調子で「決めた、これ買うよ」と言う。よかったあ、と素直に思った。そのコートは本当にKさんによく似合っていたから。色がいまのヘアカラーにぴったりとか、確かにちょっとぶかぶかだけどKさんは華奢だからかわいく着こなせるはずだとか、襟が大きめなのもいいよねとか、いろいろ言いすぎてもはやそのお店のひとみたいなになっていたけれど、でも、全部本心から言ったことだった。

 そのあとはまた渋谷、原宿と続けざまに移動して、お互いに好きな服屋さんを紹介し合ったりした。結局そこでは何も買わなかったけれど、そのやりとり自体がなんか素敵だったなあと思う。

 帰りの電車のなかではこのブログのことを話した。

 私はこのブログのことをどこかひみつの宝物箱みたいに思っていて、だからこそ、自分の中にあるうつくしい感情や、すてきな部分だけを選り抜いて書くようにしている。今日起きた出来事をここにのせようと思ったのも、まあ、つまりはそういうことです。

 宝物箱の中身を他人に見せるのって、なんだか気恥ずかしい。それに勇気だっている。このひとなら私の大切なものを踏み躙ったりしないだろう、という信頼がない限りは絶対にできないことだ。わからないひとからみたらきっと全部ガラクタなんだろうなあというのは、なんとなく予想がつくから。

 Kさん以外にもここのことを教えている友人が何人かいるのだが、私はその全員のことがすごくすごく大好きだし、これからもずっと付き合っていきたいと考えている。

 Kさんと次に会うのはいつになるんだろうなあ。また三年後とかだったらどうしよう。その頃にはどっちか結婚してるといいな。まあしてなくてもいいけど。だってそういうの関係なしに私たち最高の女だもんね。

 最後は短歌で締めたい。Kさんと別れたあと、完全にひとりになってから詠んだ五首です。

さみしくてたまらないから占いがすきなひつじはパスタ食べます

くま柄のスカート着たい かわいいの わたしをまもって金のペディキュア

三年後開催される誕生会地球のひとをいっぱい呼ぼう

限りなくピンクは赤に近づいて生きてるだけで粒子になれる

あのひとがすきなバンドのラブ・ソング全部集めて東京燃やそ