永遠

 なんだかんだで付き合うことになった。いろいろ誤解があったと知り、勝手な思い込みによって傷ついてしまっていたことを深く反省。一を聞いて十考える癖、いい加減やめなくては。

 友だちといっしょに撮った写真を見返していると、なんでカメラというものがこの世界に生まれてきたのか、よくわかる。  永遠を欲したくなってしまうきもち、というか。大切なものはなくならないようにしまっておこうとか、好きだから長生きしてほしいとか、こういうやりとりがずっと続けばいいのにとか、あるいは、この瞬間をなんらかの形で残したい、とか。そういうことをつい願ってしまうのって、きっと人類にとってすごく普遍的な感覚なんだろうなあ、みたいな気がしてくる。

 記念に一枚撮ろうよ、はいチーズ、という、ただそれだけのやりとりにそこまでのものを見出してしまうのは、ちょっと重いのかもしれない。でも、私はこれがそこまで的外れな考えじゃないはずだって、信じてる。

 一度でも愛おしんだ物のことは簡単に忘れたりしたくないし、ずっと覚えていたい、消したくない、消されたくない。どうせ百年後には全部風化して、はじめからなかったのと同じになっちゃうんだけど、せめていまだけはそんなふうに考えたくない、ってどうしても思ってしまう。

 えいえん。永遠ってなんなんだろう。結局のところ、そんなものは存在しないんだよね。ずっと終わらないような気がしていた高校生活はきっかり三年で打ち切りだったし、運命だと思って付き合ってみても半年でふられたし、幼稚園の頃から仲良くしていた友達とはそういやもう長いこと会っていない。あとたぶん、数年後には住んでる場所も職業も変わってる、ていうかもしかすると名字も。親だっていつまで生きていてくれるのかわからない。そもそも自分のほうが先に死ぬ可能性だってある。データなんか簡単な動作ひとつですぐ消えるよ。かといってプリントアウトとかしたところで燃やしちゃえばそれで終わり。自分では大事にしてたんだけど、何かの間違いで捨てられちゃった、ということだって充分起こりうる。

 だけどそれでも、残したい、っていう気持ちはこれからも生まれ続けるんだろうな。それこそ死ぬまで、ずっと、何度でも。

 表現活動がやりたいっていうのは要するにそういうことなのかも、って思ってて、でもじゃあどうして私は写真じゃなくて文章なんだろう。iphoneのカメラ機能さえあればわざわざ書かなくたっていいじゃんね。  写真に映るものも大切だけど、写真からこぼれ落ちてしまうものはもっと大切、みたいに思ってるってことなのかな。単純に文章の方が体に馴染んでいるから、とも考えられる。いや、本当は特に理由なんてないのかも。

 考えてみても答えは出ない。でも、考えること自体に意味があるように思う。