年の瀬も押し迫ってきたことだし、今年のまとめと、来年の展望のようなものを記しておきたい。読めばわかるけど、タイトルは2018年のテーマです。
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年々、新しいものに対する希求力のようなものが落ちていっているように思う。おそらくは老いなのだろう。しかしそのぶん、自分にはこれさえあればいい、という確固たるものが浮き彫りになってきたようにも感じる。あれほど錯乱の気分を愛していたはずなのに、いつの間にか、洗練、というものに心惹かれるようになっていた。
食指が動くままに気になった作家の本を買いあさったり、ノイローゼになるまで映画を観たり、そういったことはもうやめにする。乱雑さを排する、というのが今後の目標のひとつだ。
過去に読んで気に入った小説をもう一度じっくり読み返すとか、高い詩集を買って、好きな表現を眺めまわすことに何日も費やすとか。そういう時間を増やしていきたいなあと、心から思う。何を目的にというわけでもなく、ぼんやりと図鑑を眺め、桃がバラ科の果物であるという事実にひたすらうっとりする、というのもいい。
思えば、これからやっていきたいことがかなりはっきりした一年だった。高野悦子のような澄んだ眼を持ってして世界を眺めること。その上で決して死なずにいること。すてきな恋をすること。ひとつでも多くのうつくしいものを見ること。いくつになっても好きなひとたちと美味しいお酒を呑むこと。これらはなにも今年や来年などの短い期間に限定される話ではなく、今後数十年に渡って自分を支える骨格にしていきたいことだ。よい人生にしたい。
もっと細やかな話もしよう。
先生に出した手紙には、「本当に必然性のある言葉しか書きたくないと思ったとき、小説では埋めるべき余白が多すぎることに気が付いた」と書いた。そしてだからこそ詩や短歌なのだろう、とも。だが私はそのうえでもう一度小説をやる。というか、やるんだと思う。
だからといって必ずしも何かが起きるわけではない、というか、起きない可能性の方が高い。でも、やっていく過程で友達が減ったり増えたりするぐらいのことは起こるはず。それで充分だ。
書くことや読むことについて、最近、よく考える。
あんなに何もかも曝け出していたはずの南条あやが、大好きな婚約者に関しては一文字もブログに書いていなかったことや、であるのにも関わらず、亡くなった後でそのひとに宛てた恋文を公開されてしまったこと。あるいは、書くという行為にまつわる取り返しの付かなさについて。書くという嘘、結晶化。芸術とは。等々。
正直なところ、いまはなにひとつわからない。というか、一生わからないのかもしれない。だけど結局、現にこうして書いている、ということがすべてなのだろう、とふいに思った。
今年はじめたことを、来年はもう少しまともな形にしていきたい。