23歳の夏休み

 1年半近く続けた仕事を辞め、地元を出ることにした。特に何かきっかけがあってそうしたわけではない。ただ、そういう時期が来たのだ、という感じがする。親元を離れ、自分の力で生計を立てることは、兼ねてから抱いていた目標のひとつだった。達成するまでにずいぶん時間がかかってしまったようにも思うが、今日にいたるまでの三年間、散々「ああでもない、こうでもない」と駄々をこねることが出来てとても楽しかったので、まあよしとしよう。私の傍迷惑な迷走・暴走に付き合ってくれた家族や友人、職場の人等につきましては、心からの感謝とお詫びを申し上げたい。いや、そういうことは直接言えよという話だが。

 最後の出勤日に、職場の人が花をくれた。赤い薔薇、薄桃色のカラー、黄色のひまわり。可憐でかわいらしい花々で埋められた、大きなバスケット。他でもない私のことを想って選ばれたのが、まさかこんなにうつくしい植物たちだなんて、と思うと胸がいっぱいになった。その気持ちに見合うだけの働きがきちんと出来ていたか、いまだに自信を持てないふしはある。でも、出来ないなりに精いっぱい頑張ることはできた。人に恵まれたおかげでよい時間を過ごすことができたな、と思うのも、やはり嘘ではない。職場を去る際、すっきりした、という以上に、切ないという気持ちが芽生えるのは初めてのことだった。他人の口から聞くだけだった感情を実際に体験する度、大人になっていくような気がする。花をもらえるような人生になって、本当によかった。

 世間の盆休みからは少し遅れて、とうとう私にも夏が来た。しかし残念なことにあまり暇ではない。入院している祖母のお見舞いに行ったり、入院していないほうの祖母にお使いを頼まれたり、新生活に向けて必要なものを買い揃えたりと、なんだかんだで雑用が多く、困る。しばらくぶりに職を失うということで、こうなったらとことんニート生活を満喫してやろうと目論んでいたのに、うまくいかないものだ。大人の夏休みは短いし、しかも忙しい。でも、代わりにお酒が飲める。

 ひさしぶりに会った友達にすすめられて、ランブルスコという赤ワインを飲んでみた。お酒に詳しいといかにも大人、という感じがしてカッコイイが、いかんせんすぐ酔っぱらってしまうのでお勉強するのに時間がかかる。グラスの中身が半分ぐらいになったところで席を立ってみたら、お手洗いの扉に「トイレが狭くて大変ご迷惑おかけしています」という張り紙がしてあって、「ええっ、そんなことで謝らなくていいんだよ」と心が震えた。友達は新しい髪形が異様に似合っていた。

 ある程度大人になってから昔の知り合いに会うと、たいてい、記憶の中にあるそのひとよりもうつくしくなっていて感動する。

 一般的に「成長期」と聞いて連想されるのはせいぜい高校生ぐらいまでだ。だけど実際、それ以降も人は小さくなったり大きくなったりできるし、本人の意思に関わらず、肉体の情報は絶えずアップデートされ続ける。10代の瑞々しい時期に背が伸びること、体重が増えることと、20代の半ばに差し掛かって目元に皺が出来たり、冷え性がひどくなったりすること、食べ物や服の好みが変わること、物腰や雰囲気が柔らかくなったり尖ったりすること、 あるいは季節に合わせて髪の毛がロングになったりショートになったりすること。その全てを同列に考えて愛すことが出来たらいいな、とよく思う。好きな人たちの変化をひとつひとつ追いかけながら、自分自身も綺麗になったり老いたりしていけたらきっと楽しい。

 ぬか床の中に入っていた唐辛子をそのまま齧って体調をおかしくし、一気に激痩せ、すっかりスタイルがよくなってしまった別の友人のことなどをふと思い出したが、特に口には出さなかった。

 その日たまたま入った雑貨店で、とてもかわいらしいものを見つけた。ピンクのリボンの真ん中に、ちいさな苺がちょこんと乗っている、おもちゃの指輪。安いプラスチック製品であることを隠そうともしないチープさ愛おしい。1個180円だったそれを、家に帰った後で無意味に嵌めたり外したりしていたら、母親に「あんた昔もそういうのしてたよ」と言われた。詳しく聞いてみると、「さかなちゃんはいちごのお姫様なの」「じゃあお母さんはいちごなの?」「いちごなの」みたいな会話をよくしていたらしい。幼少期の私、あんまりかわいくなかったはずなのにな……。

 でも、自分だけではなく、お母さんという他人のことまでかわいいいちご王族の一員に仕立て上げてしまう想像力は、我ながらナイスだと思う。とかいう妙な自己愛。そういうやばさはいまも変わってない。

 変わっていくものが愛おしいけど、変わらないものもそれはそれで愛おしい。結論全部ラブ。

 そろそろ荷造りをはじめる。