ㅤ職場に三島由紀夫っぽい男の子がいる。何と言ったらよいか、佇まいに異様な品があるのだ。目つきが鋭く顔立ちが精悍で、姿勢がいい。何と言っても美男子。全体的に"三島由紀夫の小説に登場してきそう感"がすごいし、なんなら三島由紀夫本人にもわりと似てる。特に若い頃の。どちらかというととっつきにくいタイプだが、だからといって感じが悪いわけではない。接してみるとむしろ親切だったりして、仕事を振る際にも何かと気を回してくれているのがわかる。無骨なのと無愛想なのは違う、ということだろう。

ㅤ同年代の異性としてどう、というよりは、純粋に人としての魅力を感じる。もし男の子として生きるのだとしたら、絶対にこういう綺麗な子としてがいい。高望みが過ぎるかもしれないけれど。なんというか、憧れ。

ㅤこの感情から何かが発展していくことは、おそらくない。女の自分よりもうつくしい男に対し、率先して何か働きかけようとするのはかなり勇気がいる。

ㅤだがせめて、自分がいまあの人に対してそういうことを感じている、あるいは、感じていた、という事実については死ぬまで忘れないでおきたい。

ㅤなんて言うとちょっと怖いが。でも、そういうことがあってもいいと思う。人間関係において、実際的に密度の高い関わりを持つことが全てではない。

ㅤそれで、というわけでもないのだが、ひとつ思い出したことがあった。

「女はうつくしくなければならない」

ㅤ父親より年上の男性に、まっすぐ目を見ながらそう言われ、死にたくてたまらなくなったことがある。当時十九歳だった私は、自分がお世辞にも綺麗とは言えない容貌をしていることにしっかり気がついていた。同年代の女の子が何人か同席していたが、中でも私の脚がいちばん太かったし、私の鼻がいちばんぺちゃんこだったと、よく記憶している。

ㅤ直接的な言葉をかけられたわけでもないのに、恥をかかされている、とかなりはっきり感じたのは、何もただの被害妄想ではなかったと思う。

ㅤ女はうつくしくなければいけない、という言葉の裏には、お前は女なのに醜いからダメだ、という言葉が彫刻されていて、私はその場にいた誰よりも正確にそれを読むことができた。

ㅤ反感を抱いたことは言うまでもない。

ㅤ私は瞬間的に、その発言を女性全般に対するルッキズムとして処理した。劣等感でいっぱいになり、居た堪れないような思いを味わいながらも、自分には怒る権利がある、と考えられたのは、その頃読み漁っていたジェンダー関連の本のおかげであろう。反論こそしなかったものの、自分から目を逸らしては負けだと思った。

ㅤしかし、その後に続けられた言葉によって、私は妙な肩透かしを食らうことになる。

「本当は男もうつくしくなくちゃいけないんだけどね」

ㅤそのひとはなぜか笑っていた。しかも、決して嫌味な笑い方ではなく。居心地の悪さはそのままに、私はなんだか訳がわからなくなり、ますますこの一件を忘れることが出来なくなった。

ㅤその理由が、いまならわかる。

ㅤあれから数年生きてみて、種々様々な葛藤、奮闘があった末、容姿や持ち物のセンスを褒められる機会がそれなりに増えた。もちろんそこにはお世辞の要素が多分に含まれていることだろうが、お世辞の言葉さえ考えるのが難しいような有様だった時代を思えばたいした進歩だ。例えみんなの言葉が嘘だったとしても、私だけは私の努力を認めてやりたい。

ㅤさてそうなってみて改めて感じるのは、結局、私だってうつくしいものが好きだ、ということ。

ㅤ真新しい鏡や、陽光を透かして光るガラス、子どもの頃に見た海、幼児の、頬に影を落とす長い睫毛、艶やかなサテンのリボン、そして、彼のような男の子。

ㅤそういったものたちに憧れる気持ちや、そういった存在に近づこうと努力してきた自分自身のことを、今さら否定する気にはとてもなれない。

「女はうつくしくなければいけない」

「男はうつくしくなければいけない」

ㅤ前者だけの発言であれば、私はきっとあのひとのことを一生嫌いなままであった。しかし、これら二つをセットで考えるとなれば話は別だ。

ㅤ何度かこのブログでも書き記している通り、つい深く感じ入ってしまうような美と出会う度、私はその記録を心の宝物箱の中に閉じ込めてきた。その中はいつ覗いてみてもきらきらしていて、自然物と人工物の別も、色も形も大きさも一切区分されることなく、ありとあらゆるものが片っ端から放り込まれているのに、不思議と統一感があって整然としている。言うまでもなく、その世界において性別などというものは些細な問題に過ぎない。

ㅤ私はうつくしいものが好きだ、うつくしい少女が、うつくしい男の子が。

ㅤ女だけがうつくしくあるべきだとは思えないし、反対に、男なら醜くてもよい、という意見にも同意できない。

ㅤいまとなっては確かめる術もないが、あのひとが言いたかったのはもしかしてこういうことなのではないだろうか。だとすれば、私が少々捻くれた物の見方をしていたことになる。

ㅤもっと言ってしまうと、新たに二つのことを付け加えてみたっていい。

「男は強くなければいけない」

「女も強くなければいけない」

ㅤ強いこととうつくしいこと。その二つは表裏一体だ、と最近頓に思う。よく鍛え上げられた肉体や、努力家の燃える瞳、不屈の精神。嵐に抗う虫の命。そうしたものには必ず美が宿る。それもやはり、性別は関係ない。男の子は強くなくちゃ、とはよく言うが、女の子だってただ綺麗なだけではダメだ。いや、なにもダメということはないのだが、私の哲学は満足しない。外形的なだけの美はいつか必ず潰える。

ㅤ私がこの世で最も光をかんじるのは、うつくしいひとや強いひとではなく、うつくしくあろう、強くあろうともがいているひとたちだ。

ㅤ「奇麗だね」ではなく、「奇麗になったね」と言われて嬉しいのは、その瞬間に至るまでに味わってきた惨めな思いまで掬い上げてもらえたように感じるからだ。あの頃よく味わっていた恥の感情から逃げなかった強さを、私はいつか己の中に認めてやりたいと思う。