7kg

 半年間で体重が7kg増えた。原因はストレス。なんて書くと甘えだと思われるかもしれないが、自分自身の感覚に従って言えばそれは真実だ。精神状態が不安定なとき、私は食欲をコントロールすることができなくなる。これはわりと昔からそうで、子供のころなどはしょっちゅう激情しながらありとあらゆる物を無茶食いしていた。親と喧嘩して夜中に泣き叫びながらスティックパンを一袋食べたり、失恋をきっかけにひと夏で15kg増量してみたり。強い感情と密接に結びついている記憶を掘り起こしてみると、そこには必ず食べ物と体重計の存在がある。太っていると大らかそうに見えるらしいが、とんでもない。実際は真逆だ。

 身に染みてそのことを知っているから、他人の体型についてあれこれ言いたがる人を見かけると「おいおい、気をつけろよ」とか思う。

 そんな私ではあるが、数年前に大幅な減量に成功してからはわりと状態が落ち着いていた。太ったり痩せたりすることはあっても、太りすぎたり痩せすぎたりすることはなく、いたって健康的な体型をキープできていた。7キロ太るまで自分をコントロールできなくなったのは本当にひさびさのことだ。

 たぶん、私はいまけっこう危うい状態にある。

 このことを自覚し、自分を客観視すること。その必要性を感じたため、今日はちょっとダイエットについて書いてみようと思う。

Ⅰ.そもそもなぜ食べてしまうのか

 一見すると、答えは簡単なように思える。私は食べることが好きだ。砂糖菓子、パン、チーズ、お肉など、脂肪になりやすい物を食べるのが特に好き。野菜にはシーザードレッシングをたっぷりかけたいし、お魚はムニエルにするのがいちばん好き。そもそもの味覚が大味好みなのだ。

 では、なぜそれらの食べ物を「大量」に摂取する必要があるのか。

 いくら太りやすい食べ物とは言っても、少量で満足することができればそう極端に太ることはないはずだ。封を開けたチョコレートを翌日に持ち越すだとか、おにぎりは2個じゃなくて1個にしてみるだとか、そういう工夫がなぜできないのだろう。こう考えてみると話がちょっとややこしくなる。

 上手く表現できないが、たぶん、逆ギレなんだと思う。

 太っている自分を醜いと感じ、この食欲を制限しなくてはと焦る一方、心のどこかでは、なぜそうまでして、とどうしても考えてしまう。

 そもそもの話、太っていることが間違いで、痩せていることが正しい、という画一的な価値観に対し、私は懐疑的である。もっと極端なところまでいって、太っているから生きる価値がない、と感じることだってあるくせに、これは不思議なのだが。でも実際、体型ひとつでひとの魅力の有無を決めつけてしまうのはばかばかしい考えだと思う。人間はもっと複雑な存在だ。それにオブジェではなく生き物なのだから、容姿にばかりこだわらなくてたっていい。優しさや細やかな気遣い、誠実な態度、笑顔、才能、発想の豊かさ。気にすべき項目は体型以外にもたくさんある。その中のひとつやふたつが大きく欠けていたとしても、それだけで「価値がない」ということにはならない。世の中いろんな人間がいるし、いていいのだ。みんなが似たような理想を追いかける必要はどこにもない。太ることも痩せることも個人の自由だ。華奢な腕や細い腰に魅力を感じる人がいるのと同じ様に、ふっくらした頬や丸いシルエットに強く惹きつけられる人がいたってかまわないではないか。

 しかし思考と感情は違う。

 頭ではきちんとそこまで考えられているのにも関わらず、実際、体重計を前にすると私は簡単に発狂する。丸太のような太ももを目にすると胸が苦しくなるし、昨日より1gだって増えていたくないとどうしたって願ってしまう。他人のことならまだしも、太っている自分自身を肯定的にとらえるのはとても困難だ。

 こんな自分は醜くて嫌いだ、無価値だ、きっと誰にも愛されない、という絶望感と、なぜ太っているだけでそこまでのことを思わされなくてはいけないのか、という理不尽な怒り。怒りに感情が振り切れると途端にそれまでしていた我慢ができなくなる。結果やけ食い。

 両極端な心境を行きつ戻りつしながら、結局ジワジワ太っていく、というのはかなりストレスを感じる状況だ。そしてそのストレスが原因となってまた食べてしまう。悪循環。わかっていてもなかなか断ち切ることができない。

Ⅱ.自分はどうなりたいのか

 痩せたいのか、あるいは食べたいのか。結局のところ、どっちなんだろう。それが決められないからこんなに苦しんでいるのだし、いま結論を出したところですぐに覆ってしまうような気もするが、一応、考えてみたい。

 第一に、食べたい、というのは感情や思考というよりも動物としての本能に近いと思う。心というよりは体の叫びである。そこから一歩先へ行って、では何を食べるか、そして何を食べるべきではないのか、と考えてみたところでようやく人間らしさのようなものが出てくる。しかしいずれにせよあまり個人性の強い感覚とは言えない。

 私は、私らしさを決めるのはその人特有の思想や感情、好みにあると思っている。

 自分はどんなものが好きで、どんなことに心地よさを感じるのか。あるいはどんな人間になりたいと思っているのか。そういったことを深く掘り下げていった先にこそ、個性というものがある。

 よって、なりたい理想があるのにも関わらず、動物としての本能に体のコントロール権を奪われている今の状況は、あまり「私らしい」とは言えない。だから苦しい。

 10㎏以上の減量に成功したとき、私は「ようやく自分を取り戻した」という感想を抱いた。そのときはどうしてそういう風に感じたのか上手く説明できなかったが、いまならよくわかる。

 結局、私は痩せていたいのだと思う。

 もっと言えば、「理想の自分像」というものが頭の中にあり、それに近づくためには痩せていることが必須条件となる。

 甘いものが好きなことや、コンビニの焼き菓子コーナーをうろつきたがることだって立派な「私らしさ」の一部ではあるが、「理想の自分像」はそれよりもずっと強固で重要だ。

 特に今年に限って言えば、「黒が似合う大人の女性になりたい」というより明白な目標があった。

 太っているから黒が似合わないなんてことはないと思うし、むしろ、太っているからこそ少しでも痩せて見える色を、と考える人は多いが、私はそうではない。あくまでも痩せた体で黒を着たいのだ。レース素材のトップスから透けて見える細い二の腕、膨らんだスカートから生えている縊れた腰周り、黒とのコントラストが際立つ白い肌。そういったものに憧れがある。

 先月、友人と買い物に出かけた際、理想的な黒のワンピースを手に入れた。手触りのいい柔らかな生地、シンプルで品のいいシルエット、いちばん足が細く見える長さのスカート丈。試着室の鏡には、いままでの人生で最もシックでエレガントな自分の姿が映っていた。きっとこの服にはお気に入りの銀のベルトが似合う。運命だと思った。なんとしてでも今年の夏はこのワンピースを着たい。というより、着こなしたい。

 そして、そのためにはやはり痩せている必要性がある。誰かのためではなく、他でもない私のために。

 無理やり世間の痩身主義に迎合しようと思うとパニックになるが、他でもない自分自身が痩せることを望んでいるのであればそれは仕方がない。

 他人の欲望と自分の理想をきっちり選り分けた上で、尚痩せていたいと思うのであれば絶対にそうするべきだ。ストレスによってそれが阻害されているいまの現状は好ましくないし、改善したほうがよい。

Ⅲ.呪いの言葉、魔法の言葉

 食べたいという本能に身体を乗っ取られることと、他人の視線に自分の人生を左右されること。この2つは全く違うようでいて実はよく似ている。

 ダイエットをする上でいちばん大切なのは、自分がどうなりたいのかをよく考えて、きちんと納得することだ。 それができないときは痩せようとしなくてもいい。

 例え目的は同じであっても、 「太ってるから醜い」「痩せないと人に受け入れてもらえない」という脅迫めいた気持ちが動機になっていると結局苦しくなってしまって長続きしない。

 100%のメイクをして、いちばん好きな服を着、鏡を見ながら「私は魅力的、だけど痩せたらもっとすてきになれるかも」と頭の中で言ってみること。

 呪いの言葉で素敵になることはできない。