日曜礼拝

 近くにプロテスタントの教会があったから、試しに行ってみることにした。以前からキリスト教には関心があったし、教養のためにその概要を知っておきたいとも考えていたから、遅かれ早かれいずれは足を運ぶことになっていたと思う。それがなぜ今であり、今日であったのかというと、仕事を辞め、暇を持て余している最中にたまたま日曜日が巡って来たから、それ以上でもそれ以下でもない。

 なんのために生きるのか、あるいは、どのように生きるべきなのか。そういったことについて考えてみるとき、いつも頭の片隅に宗教の存在があった。どれほど真剣に悩み、あらゆる事柄に向き合おうと、結局、私が自分自身の頭で思いつけることには限界がある、と気づいていたからだ。

 生きる理由といえば、二年前にこういうブログを書いた。そして実際、「うつくしいものに尽くす」という考えは、一時期の私にとって救いであり、骨組みでもあったと思う。だが長くは続かなかった。というのも、そのための方法を見つけるのが非常に困難だったからだ。

 うつくしいものを欲するのは簡単だ。しかし、尽くす、とは?

 奇麗な何かをこの世に生み出すこと。あるいは、奇麗な何かがそのままでいられるよう、手を加えること。私は当初、言葉によってそういったことができればと考えていたが、時を経るにつれ、その困難さに直面していった。それもそのはずで、特別な技能を持っているわけでもない人間が、「美」に対し何か「してあげる」ことはできないからだ。できることがあるとするならば、せいぜい、お気に入りのワイングラスを大切に保管したり、金属製の指輪に錆がつかないよう気を使ったりする程度のこと。蒐集品の手入れをしている時間に一種の神聖さが宿ることは認めるが、だからといってそれが習慣になっているわけでもなし。これではとても「美」に対する「奉仕」とは言えない。

 尽くすことと欲すること、奉仕と欲望は違う。

 そして、だったら難しいことは言わず、開き直って欲望のために生きればいいではないか、と言われると、それもまた違う気がしてしまうのだ。

 美味しいものを食べて、うつくしい音楽を聴き、好ましい異性と遊んで、好きなときに好きなだけ寝る。そういった願望を抱くことが間違っているとは決して思わない。私自身、欲が満たされれば喜びを感じるし、反対に、満たされなければ苦痛を感じる。それは事実だ。

 ただ、それだけの人生、というのはあまりに虚しい。

 やはり、私には生きる指針が必要なのだ。困難に立ち向かう理由や、襟首を正してくれる存在、歩んでいくべき道筋、ありとあらゆる行動の核となってくれる価値観といったものが。

 だから宗教、というのはちょっと安直な考えかもしれない。人によっては危険だと見る向きもあるだろう。だが、可能性のひとつとして一度検討してみるのは悪くない気がした。

 さて。そういった心理的経緯を踏まえたうえで、今日初めて日曜礼拝に行ってきたわけだが。

 結論から言うと、行ってよかったなあと思う。

 宗教とは無縁の家で生まれ育ったため、祈りを捧げたり、賛美歌を歌ったり、といったようなことをしたのは初めてだったし、教会の中を満たしている厳かで神聖な空気感というのも、それ自体がかなり新鮮だった。

 その一方、礼拝が終わると同時に隣の人が話しかけてくれるなど、あたたかみを感じる場面も多く、頭で考えていたほど敷居の高い場所ではないということがわかったのも大きい。

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 (エペソ人への手紙一章五節)  昨日の今日でわかったようなことを書くと後々恥をかくことになるため、聖書の内容についてはあまり触れずにおきたいのだが、教会に特有の、「家族」という考え方には正直心惹かれるものがあった。そして、だからこそみんな親切なのだな、と思うと納得するなど。

 教会に行く前と行った後で、大きく変わった考えがひとつある。

 以前の私は宗教というものをどこか思考停止的な存在として捉えていたのだが、それは明らかな誤解だったということ。実際には真逆で、困難な現実を受け止め、前へ進んでいくために、個人の祈りがあり、信仰がある。

 これから本当に教会に通うのかどうかはまだわからないが、凝り固まっていた偏見がひとつ解消されたことは純粋によかったなあと思う。

 自分自身がそうでなくとも、キリストを信じている人間は世界中にたくさんいるわけだから。