煙のおもいで

 私にはおじいちゃんが二人いる。父方のおじいちゃんと母方のおじいちゃん。別の言い方をすれば、好きなおじいちゃんと嫌いなおじいちゃんだ。今日は嫌いなほうのおじいちゃんの話をする。

 

 おじいちゃんはたいそう亭主関白な、ザ・昭和の男で、沸かした風呂には絶対いちばんに入りたがるし、全然知らない近所の中学生を急に叱ったりするし、わけもなく偉そうで、頑固者で、神経質で、曲がったことはひとつも許せない、という、まあ簡単にいってしまえばわりと嫌な感じのおっちゃんだった。てか、ストレートに嫌だった。存在が。妹のことはかわいがっていたけど、私のことはそうでもないようだったので、なおさらあまり近寄りたくなかった。

 

 そんなおじいちゃんだが、なぜか友達は多かった。自分自身の意見がはっきりしており、物事の好き嫌いやその時の気分が傍目に見てわかりやすいほうだったから、同年代の同性からしてみれば付き合っていて楽だったのかもしれない。

 

 おじいちゃんの家に行くと、近所のおじさん連中がしょっちゅう遊びに来ていて、みんなで将棋を指したり、ギターを弾いたり、絵を描いたりしては好き勝手に感想を言い合っていた。子供はあっちに行ってろ、シッシッ、なんていわれて、強烈な疎外感を味わったこともあったけど、活気に満ちたその光景が私はわりと好きだった。酒と煙草を嗜みつつ、盛んに議論を交わすおじさんたちを見ながら、私も早く大人になりたいなあなどとよく思ったものだ。

 

 私が煙草のにおいを好むのは、このことと大きな関係があるように思う。

 

 喘息持ちの孫がいる前で煙草を吸うなんて、と顔を顰める両親のきもちも嬉しかったが、それはそれとして、私のせいでおっちゃんたちがプカプカをやめたらやだな、なんて思ったりもしていた。

 お子様立ち入り禁止の空間において、おじさんたち全員が手にしているあの白くて細い筒は、まぎれもなく大人の象徴であり、憧れでもあったからだ。

 

 私はいまだに、煙のにおいをかぐとおじさんたちの笑い声を思い出す。

 

 

 あれから十数年の月日がたって、おじいちゃんの友達はだんだん、数が減ってきた。

近所に住んでた人っていうだけで、親戚とかではないので、死んでも葬式には呼ばれないことが多い。たまに実家へ帰ったとき、ふと思い出したように「あんたむかし熱出して一人だけお祭りに行けなかったことあるでしょ、あんときに綿あめ買ってきてくれたおじさん、こないだ死んだよ」とか言われて、「えっそうなの、ショック」って返して、それで終わりだ。

 

 私のおじいちゃんはまだかろうじて生きているけれど、数年前に肺を悪くして以来、煙草は吸っていない。それに、歳のせいもあってあんまりしょっちゅうは怒らなくなってしまった。

 

 神経質ですぐ不機嫌になるおじいちゃんのことが嫌いだったし、ていうか、いまも嫌いなのに、これはこれで悲しいんだから、人間って勝手だよな。人間っていうか、私が勝手なだけかもしれないけど。

 

 淋しい。

 

 秋ですねえ。