肉体の才能

 痩せたいというよりは、みんなと同じ体型になりたいのだと思う。

 お腹や腿についた贅肉を嫌うのと同じ温度で、はやくこの胸が小さくなりますようにと祈らずにはいられない。とにかく、私は自分の体にある特徴的な箇所が嫌でたまらないのだ。健康体重の範囲であること、平均的なサイズの胸であること、あるいは、低すぎることも高すぎることもない身長。そういったものが欲しい。人より秀でていたり劣っていたりするような部分はいらない。体のことで他人から羨ましがられるのも、蔑まれるのも、どっちももうたくさんだ。

 これは実際の肉体以上に、自意識の問題でもあると思う。

 そもそもの話、太っていることは一種の個性だ。

 特にこの国においてはそうだが、よほど痩せすぎている人を除いて、適度に絞られている女性の体というのはかなり普遍的なものだと感じる。 よく、摂食障害者の女の子が「普通に痩せているだけじゃ満足できない」などと言っている姿を目にするが、これは本当にその通りで、若い女性が「普通に痩せている」ことはかなりありきたりな現象なのだ。これは普段生活している中でも感じる。街中でも、テレビの中でも、みんなしょっちゅうダイエットについて話しているし、そのくせ太りすぎている人なんて滅多にいない。

 そういった世の痩身主義に反してる分、太っている体には一定の異質性がある。

 以上のことを踏まえたうえで一つの分析を申し上げると、痩せている自分の肉体を愛おしいと思うことは、自分以外の一般的な女性の肉体すべてを肯定するのとほとんど同じ意味合いを持つ。少なくとも、私の中ではそうだ。それは自分そのものへの愛というよりも、もっと広い範囲に向けた薄い欲望、あるいは、同族意識を保ち続けることに対する執着だ。だから自意識に邪魔されることが少ないし、肯定感を持つことも容易に感じる。

 反対に、太っていて個性的な肉体を肯定するためには自己愛が必要になってくる。私にしかない特徴、私だけの固有の顔、私以外にはあまり見受けられない美点。それらを愛そうとするとき、他人の意見や一般論といったものはまったくの役立たずになってしまう。誰かの言葉を借りることなく、自分だけで自分の体を肯定していかなくてはいけない。そのためには強い愛と、信念が必要だろう。自分嫌いの私には難しい話だ。

 さらに大胆なことを言うと、私は自分を消したいのだと思う。 無個性な、顔のない人間になりたい。そしてそのためにはどこにいってもありふれているような、痩せた体が必要となってくる。いないものとして扱われたいくせに、太っているなんて矛盾しているとしか思えない。太っている体というのは、ただそれだけで充分主張が強いのだから。

 しかしここで逆説的に思うのは、太っている体が持つ、大胆な存在感と魅力についてだ。

 不思議なもので、自分の個性については疎ましいと感じる反面、他人が持っているそれにはまたとない輝きを感じることがある。女性らしい曲線を保ったまま、肉体が膨張しているひとを見かけると、つい心惹かれるままに視線が動いてしまうものだ。

 わずかにくびれた足首と、そこから生えているゆったりとした足腰、優雅に折り曲げられた厚みのある手首など。まるで古い絵画に描かれた貴婦人のような、品のある肉体を前にして、痩せていないから悪、などと簡単に言ってのけることは到底できない、と私は思う。もちろん、太っているひと全員がそういったきれいな太り方をしているかというと、それはそうではないのかもしれない。だが、世の風潮に逆らっていながらも圧倒的に美しいひと、というのは絶対に一定数以上いる。それはある種の才能みたいなものだ。こういうひとに限っては、下手に痩せて凡庸な体を手に入れるより、そのままの体型でいたほうがずっといい。

 思うに、自分の肉体を誇ることにかけては、太っている人のほうが得意なのだろう。その大胆な体に付随してくる、優美さやゴージャスさについて当人が自覚し、それをうまく活用しようと考えたとき、その存在は一種の異質性を伴って強烈に人の心を惹きつける。

 唯一残念なのは、その境地に至るために必要な想像力や、個性に対する寛容さというものが、太っているひとにも、太っていないひとにも大概備わっていないことであろう。