匿名希望

 去年自殺した友達のことを思い出していた。

 
 大学時代の私はわりと心を病んでいて、何をするのにも自信がなく、いま当たり前のようにできている大半のことができなかった。微妙な関係の知り合いにもきちんと挨拶をするとか、人の目を見て話すとか、平常心で満員電車に乗るとか、そういう本当になんでもないことが苦痛でたまらない典型的な社会不適合者だったし、そのくせ批判精神だけはやたらと旺盛で、まわりにいる大半の人間のことが「学生丸出しの言動が痛くてダサいから」という理由で嫌いだった。当然学内には友達がひとりもおらず、とりあえずで入ったサークルもしばらくするとほとんど行かなくなった。興味のある分野を学びたいがために入った大学だったので授業はおもしろかったし、好きな先生もいたけど、それ以外の周辺状況がとにかくつまらなくて何度も辞めたいと思った。で、実際に大学を中退した。そのことをわざわざ報せるような間柄の知人もほとんどいなかった。今思うと本当に気持ち悪くて痛々しい人間は私一人で他の人たちは別に何も悪くないんだけど当時はそのことがわかる客観性もなく、いや、あったのかもしれないけどでもその上で私はこんなにも大嫌いな自分自身よりみんなのことのほうがずっとずっと嫌いでした。
 
 それでそういう人生の暗黒期にバイトもやらず膨大な自由時間を何に費やしていたのかというと、私の場合はインターネットだった。まあ他にも読書とか映画鑑賞とか散歩とかいろいろどうでもいいことを一生懸命やってもいたんだけど今回の話の筋とは関係がないので省かせてもらう。
 
 当時私はTwitterにどっぷりハマっていて、四六時中張り付いては面白いことを言っている人がいないか監視したり、どうでもいいネガティブな発言を投稿したりしていた。それは別に今も変わらないのではないかと言えば確かにそうなのだが、明らかに違うのはその依存度だろう。
 あの頃はとにかく孤独で、考えたことや思いついたことを素直に吐き出せるような相手なんかいなかったから、通常であれば一生表に出さないままどこかに消えてなかったことにされてしまう自分の考えや意見に反応があるとそれだけで嬉しく、携帯を見る頻度が今よりも高かった。さみしい、という感情が強烈にあってついそうなっていたのを覚えている。
 
 Twitterのいいところは実名でなくともできるところと、そうかといって完全な匿名というわけではなく、統合性のあるひとつの人格として連続的に投稿を繰り返すことができる点だと思う。現実の社会生活よりは体裁を気にしなくていいが、完全に素の自分から断絶されてしまうわけではない。確立された一個のキャラクターとして、より伸び伸びと、素に近い性格・思想を保ったまま他のユーザーとコミュニケーションをとることができるので、「共感」を元に似たような人間が周辺に集まってきやすく、その気になればそこから友達や飲み仲間を作って現実の人間関係に反映させることもできる。
 
 私はわりとネット上においても人見知りしがちな性格で、いちばんTwitterに依存していた時期でもそれほど活発に人とコミュニケーションを取っていたわけではなかったが、それでも何らかのきっかけがあって実際に会うぐらい仲良くなった人が何人かいた。Nくんもそのうちのひとりだ。
 
 Nくんは私よりも三、四歳歳上の男性で、一応働いてはいるが父親の会社をバイト程度に手伝っているだけで実際にはほとんど無職のような生活を送っていると話していた。発達障害精神疾患を抱えていて昔から実社会に馴染むことが難しいのだと。
 とても物静かで穏やかな人なんだけど、自分で自分に刃物を向けたことがある人に特有の繊細さというか、どこか壊れやすい雰囲気があって、あ、私と同じだ、と思った。
 
 Nくんとは特に共通の趣味があるわけではなかった。それに私はわりとアッパー系というか、結構ぶっ飛んでるところもあるけど、彼は完全にダウナーって感じで、何事においてもテンポにずれがあるし、ものすごく波長が合う友達ではなかった思う。
けど、一見クールなようにも見えるNくんがさみしいとか言っているのを見るとなんとなく放って置かないような気持ちになって、折に触れては様子を気にかけたり、たまに会ったりもしていた。私の中で「怖くない男性」という存在はかなりレアだが、彼の場合はそこを通り越してもはや庇護の対象でもあったように思う。その頃からなんとなくNくんはいつか自殺しちゃうんじゃないかという気がしていたけど(本人がほのめかすようなことを口にしていたせいもある)、できるだけその時が来ないよう私にもできることはないかとたまに考えた。恋愛感情はなかったが、自分と同種の人間だと思うから守りたかった。
 
 ではそんな二人の間で何が共通項だったのか。思うにNくんとは性や死に対する考え方が似ていた。ひとつ、印象に残っているエピソードがある。
 
 Nくんは一時期夜のお店に通っていて、お気に入りの女の子がいたんだけど、ある時そのことが新しくできた彼女にバレた。その時点で既にそれは過去の話になっていて、もう今はなんの繋がりもない、とNくんは必死に説明したらしいのだが、彼女としてははどうしても納得がいかず、嫉妬に駆られるまま百回ぐらい店に鬼電して(「その女と話をさせろ!」)危うく警察沙汰になりかけたという。女の子からしたら、ただ仕事としてやっていたことが原因でそんな怖い目に会うなんて思ってもいなかっただろうし、なんというかいろいろとんでもない話だ。
 情緒不安定な彼女の破滅的な言動に振り回されてボロボロになったNくんは、電話口で「もう、本当に嫌ですよ。その子は何にも悪くないのに。自分の純粋な好意やさみしさが原因で間接的に人を傷つけてしまって苦しい」と言った。その時私の興味を強く引いたのは、風俗で働く女の子に対してNくんが抱いたという、「純粋な好意」だ。
 
 Nくんはわりと女性に好感を持たれやすい方で、その時の彼女も前の彼女もとにかくいままで付き合った相手は全員向こうから告白してきたと言っていた。また、その「お店の女の子」とも趣味の話で意気投合して特別にSNSで繋がったり、店以外で個人的に会ったり(喫茶店でお茶するだけとは言っていた)としていたというし、さらに言えばそういう周りの女性関係が原因でトラブルを起こし精神的助けを求めた相手もまた、私という女だった。
 
 それでなんでそんなに女に好かれるのかっていうのを考えてみると、Nくんからまったく性的な匂いがしなかったからじゃないかな、と私は思う。お気に入りの女の子ができるほど夜の店に通いつめるぐらいなんだからそれはないだろ、と冷静にツッコミを入れたくなる気持ちもありつつ、でも、やっぱりいくら考えてみても私はNくんが女性にそういう欲を抱いてなんらかのアクションを起こす姿っていうのが全然想像できない。
 
 性的な接触を人に求めるからといって、その理由の第一義に性欲が上がるとは限らないのではないか、と私は思う。
 Nくんはよく、さみしさや孤独感について口にしていた。「本当は同性の友達がほしいんだけど、男の人特有の雑なコミュニケーションが苦手でどうしても駄目なんですよね」とか、「別に必ずしもそういう行為がしたいわけじゃないけど、異性に親密さを求めると最終的にはそこにたどり着いてしまう」とか。だから別に、本当は仲良くなれるなら女性じゃなくてもよくて、抱きしめてもらえるなら行為がなくてもよかったのかもしれず。そういう純粋なさみしさみたいなものが透けて見えるからこそ、風俗の女の子も仕事以外でNくんと関わろうという気になったのではないかなあと、勝手な想像だが思う。
 
 私も私で当時は性とさみしさの関係についてずっと考えていて、「どんな言葉を尽くされるより、ただ抱きしめてもらったり、手を握ってもらったりすることで癒える傷というのはあると思う」とか、「理解したなんて口先だけでいくらでも言えるけど、人肌のぬくもりは実感で得るものであり、実感というのは肉体にとっての真実だから、そっちのほうがよっぽど信じられる」とか、そういうことをよく長文で呟いていたし、そうすると必ずNくんからいいねが飛んできた。
 
 その頃よく痛感したのは、特定のパートナーを作ることの難しさだ。さみしいから人肌を求める、という考え方はわりと普遍的で、別にそんなにおかしいことじゃない。多くの人はそれで恋人を作ろうとする。ところが、私の場合はまず人とコミュニケーションが取れない、異性どころか同性とすらぎくしゃくする、なんか気持ち悪いのでどこに行っても常に浮いてしまう……、そんな感じだったのでずっとさみしいまま簡易的に得られる共感と承認を求めてインターネットをぐるぐる彷徨っているしか心を癒す方法がなく、唯一救いがあひとすれば歳が若くてなおかつ性別が女であることだった。
 
 Nくんが風俗にハマった理由が私には本当に身に染みてよくわかる。正当な手続きを踏んで人と親密な関係を築くことができないというのなら、なんらかの対価を払って自分が欲しいものを手に入れるしかない。それで、私も彼も欲しいものは同じだった。一時的にでも良いから、さみしさを癒してくれる生身の人間。彼の場合は男だからお金を払った。単純な話だ。では、これが女だったら?
 
 Nくんのことを見ていて気がついたのは夜のお店とインターネットの類似性で、それはどちらも半匿名の自分として存在できるということだ。等身大じゃなくても、些細な嘘をついても、カオがない人間としてゆるく許しもらえる自由な場所。適当に受け入れたり、適当に軽視したりしてもらえる居心地のいいところ。
性的なことに関して潔癖というのではないが、かなりこじらせていた私がNくんの風俗通いに嫌悪感を抱かなかったのは、直感的にそのことに気がついていたからだと思う。
 
 Nくんといちばん親密だった頃、さみしさや将来に対する焦燥感でいっぱいになってはよく風俗の求人広告を検索していた。Nくん以外の友達にそういう話をするとみんな嫌な顔をするし、親にバレたらと思うといろいろ捨てる覚悟が必要だと感じたので結局体を売ることはなかったが、どこかで一歩違えていたら今頃自分がどうなっていたかわからない。
 
 大学を中退した後はわりと精神状態も落ち着いてきて、親や地元の友人に囲まれて生活しているうちにどうしようもない孤独感は癒えていった。最初はまともに働くことなんてできないと思っていたけど、バイトぐらいならどうにかやっていけるということがわかったし、そのうち挑戦してみたい事もできてきて、欲しいものを手に入れるお金も手に入って、なんか私、もう大丈夫そうだな、とか思っていた矢先にNくんが自殺した。
 
 そりゃもうつらかったさ。でも、すぐに昔自分がTwitter上で吐き出した言葉を思い出した。「私が自殺しても、誰も悲しんだりしないでほしい。私のさみしさや苦しさを癒せなかった人間にそんな資格ないだろって思ってきっとむかつくから」。Nくんはいつも通りそれにいいねをしてた。
 
 あの頃私の腹の底に常にあった怒りのようなさみしさのようなぐちゃぐちゃした不快な感情を、Nくんもやっぱり感じながら死んでいったのだろうか。
 
 そんなことを思うとすぐには心の整理がつかず、悲しいのも虚しいのもどうしようもない事実なのに、そんな風に感じてしまうこと自体が彼に申し訳ないような気がしてどこにもそのつらさを吐き出すことができなかった。泣かれるよりは死んでざまあみろと言われたい気持ちがよくわかるから、そうは言えない私、「友達に自殺されちゃった私」が許せなかったのだと思う。
 
 一年経った今になってこういう風にNくんとの関わりを文章にまとめようと思ったのは、やっぱり、いろんな意味で傷が癒えてきたからだろう。
 
 先日、恋人にNくんの話をする機会があり、その最中、「どんなに言葉を尽くそうと、あの頃感じていたさみしさをこの人に理解してもらうことは無理だろうな」と直観した。けど、理解できないままでもこんな私を抱きしめて、癒してはくれる。だからこの人を好きになって、一緒にいることを選んだ。
 
 思うに、Nくんは逆だったのだろうな。理解できてもお互いを癒したりはできなかった。あるいは、Nくんの抱えている傷というのが他人からの働きかけによってどうこうできるものではなかった、というのもあるのかもしれない。死ぬ間際、彼には恋人がいた。それでも死んじゃったのは別に誰かの力不足のせいとかじゃないだろうと、今では思える。
 
 なんにせよ、亡くなってしまった人を生き返らせることはできない。Nくんが自殺したことを仕方がないとは思いたくないけど、時の経過と共にだいぶ事実を受け入れられるようになってきたのもホントのことだ。そこで思うのは、これから先、もし仮に私の人生が全然つらくなくなったとしても、できるだけ彼のことを忘れずに生きていきたいということ。私は、私がつらかったことをなかったことにはしたくない。死ぬほどさみしかった頃の自分に対し、あなたもこっちにおいでって言ってあげられるような幸せがほしい。