空白期間・前編

 兼ねてから希望していた通り、今年の一月末を目処に退職する運びとなった。たった一年半程の短い期間ではあったが、本当に色んなことがあったように思う。業務上のことでパートさんに注意したら「私にばっかり言わないで!」と逆ギレされ、その後数週間口をきいてもらえなかったり、人生で初めてボーナスというものをいただいて、ウキウキしながら明細書開いたら税金が引かれててびっくりしたり……。

 いいことも、悪いことも、とにかくたくさんあった。毎日が事件の連続だった。

 何をやっても至らないことばかりで、いろんな人に迷惑ばかりかけていた気がしたが、辞める段になってから意外なまでに退職を惜しんでもらえたし、自分で感じていたよりはよくやれていたのかなあとも思う。

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 次の仕事がはじまるまで、一週間ほどの間がある。

 これまでの生活を考えるとだいぶのんびりした話ではあるが、そうはいってもたったの一週間だ。ぼんやりしているとあっという間に過ぎてしまう。

 一日一日の区切りを意識し、貴重な時間を大切にするために、この空白期間にしたことを細かく記しておくことにした。

一月三十一日(日)

 目が覚めると無職であった。有給消化の関係で正式な退職日は来月半ばになっているが、とりあえずもう出勤の必要はない。

 昨夜はお世話になった人から頂いた餞別の品や、これまでに使ってきたメモ帳、自作のマニュアル等をかえすがえす見返して思い出に浸ったりもしていたが、起きてみると想像していた以上にすっきりした心持ちで、もうほとんど切なさは感じなかった。引越し日ということもあって、過去より未来に意識が向きやすくなっていたのかもしれない。

 上島珈琲店で恋人とモーニングを食べてから、レンタカーを借りて私の自宅へと向かう。休日の都内ということもあって混雑を予想していたが、意外と行きの道は空いていた。帰りがところどころ渋滞していたぐらいだ。

 二往復する覚悟ではじめた引越し作業だが、どうにか一回目で全ての荷物を積み込むことに成功。昼過ぎにはあらかたの作業を終え、二人で大好きなラーメン屋へ行った。

 夜、家具の配置について話し合ってる最中に恋人が不機嫌になり、ちょっと不安になる。

二月一日(月)

 転入届を出すために区役所へ行く。やることは決まっているのになんとなく気分が乗らず途中喫茶店に寄ったりした。黒糖抹茶ラテ三百九十八円。値段のわりに量が少なくてちょっとがっかりする。

 役所は相変わらず人が多かった。

 転入の処理は無事済んだが、住民票の発行に一時間以上かかると言われ、後日区民事務所へ行くことに。面倒くさいが仕方ない。

 出勤最終日に手紙をくれた人がいたので、返信用のレターセットを見繕うために和風小物専門の雑貨屋へ立ち寄る。かわいらしい桜の便箋を見つけ、購入。家に帰ってから手紙を書く。

 夜、恋人と一緒に荷物の整理。本棚に本を入れ終えた段階で大概のダンボールが片付いた。残るはあと二箱!頑張ろう。

 どうでもいいけど、恋人がダンボールの山を指して「さかなちゃんの文化資本が〜」と言っていたのが面白かった。

 そういえば今日で恋人と出会って半年だ。もっと長いこと一緒にいるような気がする。

二月二日(火)

 朝目覚めた瞬間からやる気が漲っていた。起きてすぐ近くのコンビニへ駆け込んで材料を調達し、得意の簡易朝飯「ポテサラチーズトースト」を恋人に振る舞う。好評だった。美味しいが、トーストにジャムを塗って食べるよりは割高になるので頻繁には出来ない。

 化粧をしてから区民事務所へ向かう。途中、またもやる気をなくしてドトールでモーニングを食べた。今日二回目の朝ご飯である、ありえない。ダラダラ歩いてすっかり時間を空費してしまったが、手続き自体はすぐに終わった。帰り道、郵便局に寄って昨日書いた手紙を出す。

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 せっかく出かけたのにすぐ帰るのも勿体ないと思い、前から気になっていた喫茶店で苺パフェを食べた。読みかけの本を家に忘れてきたのであまりそういう気分でもなかったが編み物をした。私は時間を無駄にして過ごすのがほんとうにだいすきだな。

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 喫茶店を出た後、花屋を見かけてまたも寄り道。ピンクのチューリップとかすみ草を買う。三百三十円だった。これで生活がうつくしくなる。

 帰った後はまた引っ越しの片付け。段ボール残り一箱になった。程よくダラダラしたところで夕刻の時間が近づいてきたので、晩ご飯作りに取り掛かる。この間ふたりで開けた赤ワインが残っていたので、それを使って牛肉のトマト煮を作った。恋人の退勤を待って、一緒に食べる。今日は二回も彼と食事を共にできて幸せだった。

二月三日(水)

 目が覚めると今度は京都にいた。

 思えば昨日の夜、何の気無しに「明日暇だな、何しよう」「京都にでも行こうかな」と口に出して言ってしまったことがすべての始まりだった。

 それを聞きつけた恋人がすかさず「どうせ行くなら今日のうちに出発しなよ」「夜行バスならまだ間に合うんじゃない?」と言い出し、「別に明日でも良くない?」「まだお風呂入ってないし、携帯の充電だって四十%しかないんだよ」「流石に今から準備して大きなバスターミナルまで行く体力ないよ」とデモデモダッテを連発する私に向かって、「明日の八時に出たら向こう着くの夕方だろ?そんなのホテルに泊まりに行くようなものじゃん」「京都が一日やそこらで回れるか」「体力ないなんて、一回やってみなきゃわかんないだろ」「この機会逃したらあなた次連休取れるのいつよ、思いっきり楽しめるの今ぐらいでしょう」と論破攻撃。

 何度「無理!」「予定が!」と言って押し返しても一向に引かないので、このまま喧嘩になるぐらいだったら……、と根負けしてついついその日のうちに出発する話をのんでしまった。そもそも京都へ行こうという発言自体がただの思いつきでしかなく、はっきり決めていたわけではなかったのに、強引なもんである。

 そこからの展開は早かった。夜行バスの予約は恋人に任せ(私のひとり旅なのになぜかやる気満々で予約から支払いまで全部してくれた)、物の三十分で荷造りをして、二人揃って深夜のバスタ新宿へ。押し問答をしている最中は「なんて頑固なやつなんだ!」と若干腹を立てていたが、「予約した便に間に合わないのではないか」とヤキモキしながら夜の町を走るのは思いの外楽しく、バスに乗り込む頃にはすっかり旅の気分になっていた。

 そんなこんなで今日である。走って疲れていたからか、バスの中ではきちんと眠ることができた。七時間以上座りっぱなしだったので足の感覚が変になっていたが、それ以外は元気だ。

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 時刻は朝の八時前。せっかくなのでチェーンじゃないお店でモーニングが食べたいな、と思い立ち、京都駅近くの『ポコ』という喫茶店に入った。サンドイッチとコーヒーのセットが五百五十円。安い。

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 ずっと行きたかった伏見稲荷神社。中学校の修学旅行ぶりか。おみくじを引いたら小吉だった。「勝負事 大いにまけなり」やたら悪いことばかり書いてある。見なかったことにしよう。

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 こちらも同じく以前から行きたいと思っていた『フランソワ喫茶室』。コーヒーフロートが美味しい。この辺から意識が朦朧としてくる。携帯を触ろうにも頭が上手く働かないので編み物をしながら時間を潰した。

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 疲れていたのでスーパー銭湯に行った。一風呂浴びた後、リラクゼーションスペースで一時間ほどうたた寝。全然京都ならではの場所ではないが体力回復のために必要だったので仕方ない。

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 携帯も、私本体も充電がなくなりそうだったので、早めに今日泊まるホテルへと向かう。途中通りがかった公園で猫とお喋りした。

 ホテルにチェックイン後はひたすら部屋にこもってダラダラ。通常であればお酒が呑みたくなる場面だが、なんとなく気乗りせず、素面のままこれまでの経緯や今後のことを考えてやり過ごした。確かに体は疲れているのだが、一日中コーヒーを飲んでいたせいかうまいこと眠気がやってこない。

 仕事を辞めるたびに実感する自分の根無草っぷりというか、無所属感というか、失職中とい状況に付随してくる様々な気分、社会から断絶されて宙ぶらりんになっているこの感じ、孤独だけど自由で、目の前がひらけていて、なんだか楽しいような、不安なような、よくわからないごちゃ混ぜの感情がここへ来てようやく湧いてきたのを感じる。

 恋人の庇護下で過ごす安定的な毎日を否定するわけではないが、たまにはこうして「無所属の私」に戻り、ひとり思索にふけることも必要だなあ、と改めて気が付いた。

 あと数日で新しい仕事がはじまるわけだが、決してそこを安住の地と思わないようにしよう。結局、宙ぶらりんになれないのであれば前職を辞めた意味がない。透明人間の気分が好きだ。