嫉妬の輪郭

 言葉で感情に輪郭をつけてあげると、いまにも噴火しそうな頭が多少はマシになる。



 あれは高校一年生の秋だった。進学説明会だったか、校外学習という名の遠足だったかは忘れたが、とにかくその帰りに、当時(一瞬だけ)付き合っていた男の子のお母さんと偶然顔を合わせたことがある。それでちょっとびっくりしたのは、その人というのが、かなりお洒落で可憐な女性だったからだ。彼のお母さんは栗色の長い髪の毛をくるくるに巻いていて、その上に古いフランス映画に出てきそうなまあるい帽子を被り、裾にフリルのついたトレンチコートを羽織っていた。私と同じ少女趣味で、且つ、センスがよく、華奢な体から品の良さが滲み出ている。

 私が好きな男の子は休み時間に教室で堂々とギャルゲーをやっているようなタイプだったし、けっこうふくよかなほうで、眉毛も太かったけど、同時にいつもいい匂いがして、肌はうさぎのように白く、声の調子は穏やかだった。数学がよくできる子でもあった。


 それで、そのときはじめて「こういうことだったのか」と思ったのだった。

 

 

 それ以来、私は自分が好きになった男の子や付き合った人の母親を見てガッカリしたことが一度もない。



 どうしようもない嫉妬で苦しんでいて、それを直接恋人にぶつけることもできず、ひとりで悶々としながら人が人を所有しようとすることについて考えていた。これまでの人生を振り返ってみると、私はそのことについてかなり否定的な態度を取ってきたように思う。


 子供の頃、私がいちばん仲良くしたいと思ってた女の子には別に親友がいた。二人はいつも一緒で、仲良さそうに肩を寄せ合い、しょっちゅう小声で内緒話をしている。二人のことも含めた五人とか、六人とかで遊んだり、グループを作ったりすることはあるけど、どんな時でも彼女たちは必ず最小単位の二人としてそこに存在していた。二人の周りに存在する、どうやっても突破することのできない警戒線みたいなものを認識するたびに、「私は疎外されている」と感じていたが、そこは田舎の小さな学校で、他に交流関係を求めるのは到底無理な話だった。

 私は仕方なく「自分は誰かの一番になれない」と打ちのめされながら育った。


 高校生ぐらいになると他にもっと気の合う友達ができたり、彼氏ができたりもしたけど、やっぱり私は子供の頃受けた些細な傷を引きずっていて、長らく誰かに「いちばん好き」をあげることができなかった。酷いときでは親友に「さかなちゃんがそうじゃなくても、私はさかなちゃんのことがいちばん好きだよ」と言われて「友達に順序をつけようと思ったことがない」と返したことさえある。それはさすがにあとから物凄く後悔したし、引きずったのだけど、でも実際、気持ちとしては素直なものだった。

 私は自分が誰かに「いちばん」という態度を取ることで「いちばん」以外のひとが傷つくのは嫌だったし、いつか「いちばん好き」に「いちばん好き」を返してもらえなくなるかもしれないと想像するのも嫌だった。「いちばん」をめぐる感情やそこから起きるいざこざにうんざりしていたのだ。


 そういうこともあり、「いちばん好き」を交換し合い、他の人間に奪われないよう気を配り合う「恋愛」という対人関係のパターンには成人してからもなかなか馴染めなかった。

 人を好きにはなるし、告白したり、告白されたりということも年一ぐらいでやるのだが、お互いの気持ちがわかったところでなんらかの権利を得たように感じることができないのだ。そういう態度は傲慢だと思っていた。付き合ったからといって相手が自分のことを「いちばん好き」とは限らないし、別にそれでも構わないように感じる。「全部あげる」「全部ちょうだい」は言うのも言われるのも厚かましい。「好き」に「好き」を返してもらいさえしたらあとはなんでもよく(結局、深層心理においてはよくなかったし、だからこそ耐えきれず別れてきたわけだが)、デートでどこに行きたいとか、イベント事をいっしょに楽しみたいとかいう要望を相手に伝えたり、疑問や不満を直接ぶつけたりすることができないまま(そうしてもいい"権利"があるとは到底思えないので)耐えきれなくなったら自分から別れを切り出す、ということを昔はほんとうによくやっていた。相手からすれば意味不明だと思うが、私の中では筋が通っている。私はあなたが好き、あなたも私が好き。でもそれはそれだけの話であって他に変なオプションがついてくるわけじゃないし要求されてもどうしたらいいかわからなくて困る(だって私には他にも仲良くしたい友達がたくさんいるし優先したい趣味もいろいろあるから)。



 そういうふうに考えていた頃を思うと、嫉妬に狂っている現在の自分のことがとても不思議だ。所有欲も独占欲も、実際に感じるまでは否定的に扱っていた感情だった。


 今の恋人に出会う以前、私は自分のことをアセクシャルなんじゃないかと疑ったり、ポリアモリーの可能性について考えたりもしてきたが、どうも「そういうわけ」ではなかったらしい。過去のトラウマを拗らせて、そこからドミノ倒しみたいに全部がうまくいかなくなっちゃっただけ。


 所有欲を感じるほど深い仲になった異性はおそらく彼がはじめてだし、それを許してくれる寛大な愛にはいつも感謝している(反省もしている)。



 はっきり言って私は今の恋人に対して激しい独占欲を抱いている。いっしょにいるときに他の女の子を褒められるとキレるし、さみしいときにかまってもらえないとすぐ拗ねる。いつか他の人にとられたらどうしよう、と心配するだけでなく、過去の彼女や初恋の人のことも大嫌い。なんなら私の恋人にかわいいと思われたことがある女性は全員死んでほしいと思っている。そのかわり、私も恋人以外の男性には必要以上の興味を抱かない。


 十五歳の頃の頭になって冷静に考えてみると、これは相当に変な話だ。なぜ私は「そうしてもいい」「そういうふうに思ってもいい」と頭から信じられるのだろう?


 浮気は行動だからまた話が変わってくるが、特定のパートナー以外の異性に魅力を感じてはいけないとか、過去の恋人との思い出を捨てろ、というのは実はけっこう無茶な話だ。

 もし私が根っから恋人以外の男性に全く関心を抱かない人間だったら、これまで他の異性を好きになったり付き合ったりしてきたことに説明がつかないし、コンピューターみたいに都合よく記憶を操作して「なかったこと」にすることもできない。


 また、仮に今の恋人と別れたとして、その後は一生独り身で過ごすのかと聞かれればそうとも思えなかったりする。きっと、誰かしら他に魅力的な人を見つけて互いに心や体を許し合ったりするはずだ。私はすてきなお母さんに育てられたすてきな男の子を見分けるのが上手いから、これからの恋愛にも期待が持てる。それにおそらく、だとしても今の恋人との思い出は死ぬまで頭に残り続けることだろう。なぜなら、それは「そういうもの」だから。


 これらの「自然な事実」は私以外の多くの人間(恋人も含む)にとっても当てはまることだと思う。

 で、それは果たして本当に「酷いこと」なんだろうか?


 こうして現在から離れてもっともっと長い線の端っこから自分自身を捉え直すと、昂っていた感情がみるみるうちに冷めていく。

 「私だけを見て」「いちばん好きをちょうだい」「要らないことは忘れて」これらは全て感情としては自然なものだが、欲求としてはかなりの無理があるし、ぶつけられる/ぶつけられるのは理不尽だ。



 数年前までは人に執着できないことで悩んでいた私が、今では強すぎる嫉妬心に悩まされている。せめて過去のことについてはそれはそれ、これはこれで考えられるようになりたい。