溶ける顔

 夕飯を食べ終わったあと、恋人によじ登ったりすべり落ちたりしながら過ごしていて、ふと「肉体的な依存があるな」と感じた。恋人と出会ってから私は平日夜の時間を過ごすのがずいぶん下手になった気がする。占いの勉強をしたり、本を読んだりと、やりたいことはたくさんあるはずだし、明るいうちは確かに「今日こそは」と思っているのだが、家へ帰りつく頃にはすっかり忘れて恋人と接触することにすべての神経を使いこんでしまう。私は恋人の体をどんなに食べても決してなくならないクリームパンみたいなものだと思っていて、退屈を感じるとたいしてお腹が空いてなくてもガブガブガブガブかじりつく。出会って一年とちょっと、一緒に暮らし始めてから半年ぐらい。ずっとそんな感じで過ごしてきた。

「こうやっていると確かに落ち着くんだけど、暇なんだよね」

「なにかをやりたいって気持ちより、こうしてただくっついているだけの時間を優先したがるのってやっぱり何かあるのかな?」

「そこに気づかないと永遠に根本解決できない気がする」

 私がそう言うと恋人は、

「不安なんじゃない?」

「不安だから人と接触してないと落ち着かないんだよ」

「俺が好きだからくっついてるわけじゃなくて、温もりをもらえるなら本当は誰でもいいのかもしれない」

 と返すので私は物凄い衝撃を受けてそれからしばらく考え込んでしまった。もしかして私は恋人のことがそんなに好きじゃないのか?いや、そんなはずないだろう。

 だけど私があまりに大きな不安感を抱え込んでおり、それが原因で人肌を求めていることも事実だと思った。

 

 

 私は自分が自分であることに自信がない。実は。あまりこれという意見がなく、反対されても押し通したい自我みたいなものを持っていないため(ほんとか?)、誰かといると頻繁に自分は他人の鏡像でしかないと感じる。その場限りの感情や感覚だけが私に私を与えているが、そこに決まりきった形はない。輪郭が掴めないものに感情を抱かれるのは意味不明で恐ろしいから人に好かれるのも嫌われるのも同じくらい苦手。透明になりたい。誰にも見られたくない。認識されると余計に自分がわからなくなる。

 

 そんな感じだから恋人がどこで私と他者を区別しているのかもわからない。その上でいっしょにいようと思った理由はもっとよくわからない。愛情表現という形で何度も説明を受けているはずだがいつまで経っても確信が持てない。不安のあまり襤褸が出ることを期待して昔の彼女のことを異様に気にしたりする。知ったところで目の前にある愛情が減ったり増えたりするわけではないのだから、意味がないのに。

 

 

 一日中自分の気持ちと向き合った結果、嫉妬や依存心といった感情が持つ複雑さにようやく気が付いた。私はどうも、恋人に対する愛着と自分の中に元からある根源的不安を混同して捉えていたらしい。この両者はとても自然なかたりで混ざり合い、ひとつの不快な感情として意識に昇ってくることがしばしばある。でも、本来は別のものだったのだ。

 

 そう気が付いた瞬間、私はこれまで恋人にとってきた様々な態度を申し訳なく思った。自分の不安感情に巻き込んで傷つけたり迷惑をかけたり否定したりしてもいい他者なんてどこにもいない。それで人が思い通りになることを望んでもいけない。支配と愛は違う。本当に誰かを大切にしたいと思うのであれば、相手の心と自分の心を区別した上で双方に敬意を払わなくてはならない。

 

 好きなところを好きと思うだけのラブでありたい。

 

 

 以上の考えを踏まえた上で恋人に「やっぱり誰でもいいわけではないと思う」「好きだから一緒にいるんだよ」と伝えると「そりゃそうだよ」と言われた。なんだよ。それに、「でもね、不安でもいいと思うんだよね。人の心にはデコボコがあって、怒りの感情が大きい人や悲しみの感情が大きい人がそれぞれいるでしょう。さかなちゃんの場合はそれが不安ってだけの話だと思うんだよね」とも。

 

 それが嬉しかったのでその日はたくさん本を読めた。

 

 

 恋人と『ゴーン・ガール』をいっしょに観たら「結論、彼女のことは大切にしろってことだね」と言っていて、なんていい男、と思った。