十一月九日(水)
朝起きるとさすがに胸が切なかった。もう歩かなくていいんだと思うと心にぽっかり穴が空いたかのようだ。その代わりに何をしたらいいのか、以前はどんな感じで旅をしていたのか、すぐには思い出せそうにない。宿に置いてあった、不要なものを回収してくれる箱にずっと使っていた杖を入れて、何の感慨も湧かなかったことがあとから思い返したときに引っかかった。
九時半、最後にお世話になったアルベルゲをチェックアウトした。サンティアゴ以降いい宿に当たることが多かったが、昨日のところは特にピースフルだった気がする。
バスが出る時間まで余裕があったので、海辺へ。
売店でスイカ味のファンタを買って飲んだ。意外と薄い果汁のあの感じがよく再現されている。
しばらくの間ベンチに座って二人でぼんやりしていた。飼い犬といっしょに何もせずに突っ立ってるおじさんがいて、漠然といいなあと思う。人間、スマートフォン以外にも何か無心で眺められるものが必要なんじゃないかという話をした。犬とか、海とか。
何をするわけでもなく浜辺のほうにも降りてみた。
大きなシーグラスを拾った。嬉しい。せっかくだからきれいな貝殻もひとつ持って帰りたかったけど、ひっくり返して実があった部分を見たらなんとなく生きていたときの感じがまだあったのでやめておいた。
それにしても天気がいい。もし到着が今日だったら日没の瞬間もはっきり見られたかも、という話になりかけて、でもそんな仮定は無意味だなと思った。何を言ったって結局のところは巡り合わせで生きていくしかないのだから。
出発時間が近づいてきたので、町まで引き上げてバルで少し休んだ。
十一時四十五分。サンティアゴ・デ・コンポステーラ行きのバスに乗車。信じられない。四十日以上歩きだけで移動してきたわけだから当然いろんな意味でショックがあった。自分の中の禁忌を破るような感覚と、以前は当たり前のように使っていたモノに対して感じる新鮮さ。しかも三時間で目的地に着いてしまうらしい。ここに来るまで五日もかかったのに……?
どのみちスペインから日本まで歩きで帰るわけにはいかないので、どこかの時点で迎えなくては行けないタイミングではあると思うけど、やっぱりちょっと抵抗がある。逆走カミーノをする人の気持ちがなんとなくわかった。
※逆走カミーノ…まれにサンティアゴで折り返して自宅や出発地まで歩いて帰るという人がいる。
とはいえすぐ慣れた。バスって全然疲れないし早いな。画期的だ。
もうこんなところまで来ちゃった。
ものの十五分で一昨日泊まったセーの町を通過。私は平気だったが、夫はひさしぶりの乗り物に三半規管をやられたようでかなり辛そうにしていた。かわいそうに。
十四時半。サンティアゴに到着。呆気ないものだ。それでもまあ、帰りがバスだったからといって私たちの歩いた九百キロが無効になるわけではないよな、とこの時にはかなり心の整理がついていた。
予約してあるゲストハウスのチェックイン時間が十六時からだったので、近くのお店で遅めのお昼ご飯を食べた。ラザニアが美味しい。しかし時間が来ても該当住所のアパートに人がいる様子がないので、不審に思っていたら別の階の住人が「そこは先月末で潰れたよ」「この前も同じようなトラブルがあったの」と教えてくれた。なんてことだ。予約サイトを通じてお金はもう払ってるのに。とはいえいない相手にごねても仕方がないので、返金してもらえるようサイトに掛け合って急遽別の宿を抑えることにした。
三度目の大聖堂。通り過ぎる時、「明日からフィステーラへの道が始まるから油断できないね」と言ったらウケた。
十七時。なんとか今日の寝床を確保することに成功した。受付の女性は親切でフレンドリーだし、飼い猫も三匹いていい感じ。
部屋も清潔感があってきれいだ。ここにしてよかったと思った。
しばらく休んでから郵便局へ荷物を取りに行った。巡礼を始めた当初、少しでもバックパックを軽くしようと不要なものをサンティアゴまで送っておいたのだ。巡礼者向けに四十五日間局留めにしておいてくれるサービスがあって助かった。
段ボールがボコボコに潰れていてちょっと心配になったけど、中身はなんともない。夫のノートパソコンも無事だ。よかった。
巡礼者キティちゃんのTシャツが売られていてかわいかった。
十一月十日(木)
十時過ぎまで寝ていた。本当は今日のうちに巡礼事務所で巡礼証明書を発行してもらったり、大聖堂で礼拝に参加したりしたかったのだが、二人ともやる気がないので断念。必要なことは全部明日に回すことにした。
その代わりゆっくり身支度して、一ヶ月ぶりに化粧もしてから宿を出発。お腹が空いていたので何か食べにいくことにした。
と、思ったがそれも怠かったので売店で生ハムとチーズを買って宿で食べることに。パンは近くのパン屋さんまで足を伸ばして買いに行った。いい匂い。
宿の中庭で食糧を広げていたら猫が邪魔しにきてくれて嬉しかった。たいして懐いてるわけでもないくせに、現金なやつだ。これは人間用の味付けがしてあるからきみにはあげられないんだよう、と諭していたら途中でぷいとヘソを曲げてどこかに行ってしまった。
食べ終わった後はまたずっと昼寝。ひさしぶりに弛緩し切った時間の使い方をしている。
十七時過ぎ、ようやく起きて外に出た。何かしたい気分だったが、このままベッドに転がっていても上手くスイッチが切り替わらないのでひとまず適当なカフェを目指すことに。
夫がカフェ・コン・レチェを頼み、私が酒を飲むというちょっと珍しい感じになった。スペインにはティント・デ・ベラーノという赤ワインベースの簡単なカクテルがあり、それがサングリアに似た味でとても美味しい。炭酸飲料水で割るだけだから自宅でも簡単に作ることができるし、実際、日本にいたときはたまに飲んでいたんだけど、そういえばいざこっちに来てからは店で頼んだことがなかった。
夜は巡礼者メニューの食べ納め。と言いつつ明日も普通に食べるかもしれない。最後に大きなリブステーキを食べられて嬉しかった。
月がきれいだった。