リヨン シュヴァルの理想宮

十一月十九日(土)

 今日はシュヴァルの理想宮に行く。それは子供の頃にテレビで特集されているのを見て以来、長年憧れていた特別な場所だ。個人的にはルーヴルやヴェルサイユよりもずっと楽しみにしていた。

 この理想宮はシュヴァルというひとりの郵便局夫が仕事帰りにせっせと石を拾い、石を積み、三十三年もの年月をかけて作った建築物のことで、ピカソをはじめとする多数のアーティストに影響を与えたすごい芸術でもある。石を積むというシンプルな行為と直向きな情熱によって自分の理想とする世界を作り上げてしまった、という物語にはかなり惹かれるものがあり、この機会ぜひ訪れたいと思っていた。

 

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 が、理想宮はリヨンから電車で一時間、そこからさらにバスに乗って三十分というけっこう辺鄙な場所にあり、本当に行けるかどうかは試してみないとわからなかった。心配な人は事前に国際免許証を取得しておいて、レンタカーで行ってしまうのもありだと思う。私たちは一か八か賭けて公共交通機関を使ってみますが……。

 一抹の不安を抱えつつ、ひとまず出発地点のリヨン・パールデュー駅へ。近くのパン屋さんで朝ごはんを買ってから向かった。全部がとってもいいにおい。

 

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 リヨン・パールデュー駅。ここからまずは七十キロ南下した先にあるサンヴァリエ駅を目指す。携帯で調べた情報と睨めっこしつつ、券売機と格闘してなんとか電車の往復チケットをゲットした。

 が、ここでさっそく問題が発生。

 その流れでたまたま読んでいたブログに、「サンヴァリエからシュヴァルの理想宮近くまで出ているバスは土日運行していない」と書いてあるのを見つけちゃったのだ……よりによってこのタイミングで。元々スクールバス代わりに使われている路線だから、とその理由までしっかり説明してある。

 そんなバカな〜と思いつつブログの解説通りにもう一度時刻表を解読してみると、確かに土日の便はなかった。どうも我々は時刻表の見方を根本的に間違えていたようだ。

 理想宮自体は土日も開いているため、タクシーを使って行くことは可能だが、それだと往復八十ユーロ(約一万千円)もかかる。


 これはどうしたものかという話になり、「私が行きたいと言い出したんだから、このタクシー代は私が出す」と主張したのだが、夫は「それとこれは別だから自分が払う」と言って納得してくれない。優しいなと思った。しかし本気で行きたい場所なら自分自身で事前にもっとちゃんと調べておくべきだったし、やっぱりどう考えてもこの出費は私の責任だ。話し合いの末、最終的には「帰ったら何か美味しいものを奢る」というところで合意が取れた。しかし……。

 

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 十時。予定時刻通りサンヴァリエ駅に到着。一回は話がまとまったと思ったのだが、夫はなかなか諦めがつかない様子。もう一度時刻表を確認したり、他の手段はないか考えたり……。「お金がどうこう言う以前に、タクシーが嫌いなんだよね」と言い出して、そういえばそうだったのを思い出した。この場合は仕方ないんじゃないかとも思うのだが、だからといって相手の意に沿わないことはさせられないし、どうしよう。うーん。「もうヒッチハイクするしかないのかなあ」「それだ!」

 

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 ほぼ何も考えずに発した言葉がきっかけとなり、人生で初めてヒッチハイクに挑戦することになった。車道側に向かって立てた親指を突き出し、印象が悪くないように口元はにっこり。こんなんで本当に車が捕まるんだろうかと不安だったが……。

 

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 なんと乗せてくれるマダムが現れた。オートリーヴに向かう予定はないが、この先のもっとヒッチハイクがしやすい場所で降ろしてくれるとのこと。とてもありがたい。

※オートリーヴ…バスに乗って向かう予定だった町。

 

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 せっかくなのでそこからさらに移動して大きな道路のすぐ傍まで来た。この一本道を真っ直ぐ行けばオートリーヴに着く。これで同じ目的地を目指している車と遭遇する確率はだいぶ高くなったが、そんなに易々とうまくいくだろうか……。

 

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 と、不安に思っていたら今度はやさしい紳士が止まってくれた。オートリーヴの十キロ手前まで行く予定なので、そこまでだったら乗せて行ってくれるという。渡りに船とはまさにこのこと。残り十キロぐらいだったら余裕で歩けるし、ぜひお願いしますと頭を下げて同乗させてもらった。


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 というわけでここから先は歩いて行く。一時は絶望感が漂っていたが、なかなか良い感じの流れになって来た。フランスの田舎を散歩する機会なんて滅多にないのだし、この状況はむしろラッキーだ。

 

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 飛び出し注意の標識。色使いが洒落ている。

 

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 この国に来て初めて猫と遭遇した。

 

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 途中で小さなマルシェを見かけた。チーズとビールを買って食べながら歩くことに。ビールはラベルにフランボワーズと書いてあって、飲んだらロゼワインかと思うほど爽やかなフルーツの甘味が感じられた。

 

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 オートリーヴまで残り四、五キロ。カミーノみたいだね、と二人で盛り上がった。

 

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 そのまま普通に歩いていたらなんと自ら車を止めて声をかけてくれた方がいて、理想宮のすぐ近くまで乗せて行ってもらえた。良いひとすぎる……。

 

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 十三時、理想宮に到着。ひと目で圧倒された。元々自宅の庭に作ったものだからそんなに大きくはないと聞いていたのだが、いや、大きいよ。これがひとりの人間が成した仕事だと思うと途方もない規模だ。

 

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 最初に制作を始め、二十年の月日を費やしたという西側。

 

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 近づいてよく見ると、あちこちに羊やライオン、鳥などいろんな動物の彫刻が施されていた。少し幼い造りの顔が愛おしい。

 

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 理想宮は中に入ることも出来る。まずは二階部分から。細部を見れば見るほどシュヴァルの思い描いていた世界がいかに美しかったのか伝わってきて胸を打たれっぱなしだった。この城が今回の旅で見たいちばん美しいものだ。

 

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 「躓きの石」。郵便局夫としての仕事中、この変わった石に躓きかけて、それを家に持ち帰ったところから理想宮の建設は始まったそう。

 

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 一度階段を降りて今度は東側へ。ぐるぐる周囲を見てまわる。

 

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 ホワイトハウスヒンドゥー教寺院。シュヴァルは東洋西洋を問わず様々な国の文化や様式からインスピレーションを得ていた。世界のすべてを包容する、大きな夢の偶像としてここは存在しているわけだ。自分が美しいと感じるものすべてを平等に愛し、ここに再現して作ったのだと思うと胸がいっぱいになってつい泣いてしまった。


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 東側の階段の傍にベンチの様になっている部分があった。こういう、生活上必要そうなものを理想の世界に持ち込んでいるところも好きだ。究極的であるだけでなく、どこか丸みを帯びたやさしさを感じる。

 

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 一階部分にも入ってみた。当然中の装飾も凝っている。天井のシャンデリアみたいなところには灯りが吊るせるようフックが付けてあった。

 

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 天国と地獄をイメージして最後に手がけられたという北側。アダムとイブの彫刻、その周囲には大量のヘビがいる。近くにある木の実のようなものは林檎だろうか。見れば見るほど新しい発見があって全く飽きない。

 

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 遠くから見てもやっぱり良い。

 精神的な自由を守り、多くの時間と労力を使って理想を具現化することの素晴らしさについて考えた。私にこんなに大きな仕事は成し遂げられないだろうけど、生きるからにはいつか自分だけの砦を築きたい。そして出来るだけ多くの人間がそうするべきなんじゃないかとも思った。

 

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 たっぷり二時間は楽しんでから理想宮を後にした。近くにシュヴァルの墓があるというのでそこも行ってみる。

 

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 道端に落ちている葉の色合いがきれいだった。

 

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 シュヴァルとその家族が眠るお墓。

 当初シュヴァルは理想宮の地下に埋葬されることを望んでいたが、村人や教会からの反対にあって村営墓地に新しくこの墓を作ることにしたらしい。理想宮を見ながらそのエピソードを思い出した時には「ここまで頑張ったんだから好きにさせてあげなさいよ!」と怒りが湧いた。けどまあ、フランスの法律的にどうしてもダメらしいので仕方ないのか……。

 墓所は八年かけて手がけた最後の作品なだけあって技術の洗練が伺えた。

 

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 貝殻の中央にだけ色を塗って花を表現しているのがよかった。胡蝶蘭の様に見える。

 

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 素晴らしい夢を見せてくれて本当にありがとう。

 

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 帰りはさすがにタクシーを呼ぼうという話も出ていたが、結局またヒッチハイクをやる流れになった。が、行きに比べて車の数は少なく、たまに通りがかったと思ってもみんなスルーして行く。

 これはダメかな……と諦めかけていた矢先、なんとさっき理想宮まで乗せて行ってくれた女性がたまたま現れてまた助けてくれた。隣町のスイミングスクールに行くのでそこで降ろしてくれるという。

 

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 余っていた紙に行き先まで書いて渡してくれた。なんて親切なんだろう。本当はもっときちんと感謝を伝えたかったけど、メルシーと投げキッスしか出てこなかった。

 

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 でも、でもさすがにもう次はないよね……。と、期待しすぎない様にしていたけど、やっぱりまた別の車に拾ってもらえた。今度は寡黙なお父さんとかわいい娘さんの二人組だ。しかも本来は手前の町までしか行かない予定だったのに、どうせ五分程度しか変わらないからと言ってサンヴァリエの駅前まで送ってくれた。フランス、善人しかいないのか……。

 

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 駅前にあるカフェでしばらく時間を潰した。

 

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 本気でびっくりしたのだが、カフェにいた常連のお兄さんが「この辺は夜危ないから」と言って駅まで付き添ってくれた。ぜんぜんそんな感じはしなかったけど……。

 最後別れる時に二人まとめて抱きしめられて、逆にこの人が危ないんじゃないかと一瞬疑ってしまった自分を恥じた。

 

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 二十時。今日関わってくれたすべてのひとのおかげで無事リヨンに帰ってくることが出来た。美しい夢に泣き、他者の善意に助けられた素晴らしい日。

 日本に帰ったら海外から来た旅行者にもっと優しくしよう……とかそういうレベルではなく、根本的に生き方を変えたいと思った。そんな一日だった。