料理クラブ

 小学生の頃、クラブ活動というものがあった。通常の授業が終わったあとで、興味のある分野ごとにわかれて行う、あれのことだ。地域によって呼び名に違いはあるかもしれないが、だいたいどこの学校にもあるものだと思う。

 サッカークラブ、野球クラブ、屋内スポーツクラブ、パソコンクラブ、手芸クラブ、工作クラブ等々。遠い昔のことだから、すべて覚えているわけではないけれど、ざっと考えただけでもこんなに種類がある。

 その中でもとりわけ記憶に残っているのは、女の子たちのいちばん人気・料理クラブだ。クラブにはそれぞれ定員数が決められているのだが、この料理クラブは希望者数が多すぎるあまり、ほとんど毎回抽選になっていた。中には「本当は料理クラブがいいんだけど、どうせ無理だから」と言って最初から諦めてしまう子も何人かいたように記憶している。

 どうやら女の子というものは、小麦粉に砂糖をふりかけたり、にんじんをハート型にくり抜いたりすることが大好きな生き物らしい。

 料理クラブの存在によってはじめてそのことを知らされたとき、私は焦燥感を覚えた。自分がそういった多数派の好みを持っていないことに、なんとなく気が付いていたからだ。

 包丁は刺さりそうで怖いし、火は危ないから近寄りたくない。母親の手伝いぐらいならたまにはするけど、それはあくまでも気が向いた時だけ。こんな自分は「ふつうの女の子」じゃないような気がして、新しくクラブを選ぶ時期になるといつもひやひやしていた。そして、ほんのすこしだけ後ろめたかった。

 絵を描くのが大好きだから、私はいつもイラストクラブ。妥協で選んでいるわけではなく、心からの第一希望だ。何も悪いことではない。むしろ、好きなものがはっきりしているのはいいことだと思う。そのはずなのに、この捨てきれない感情は何なのだろう。小学生の頃、私はずっとそのことを考えていた。

 好き勝手お姫様の絵を描き散らしながら、横目で料理クラブのことを観察していて、ふと気が付いたことがある。料理クラブに入っている女の子は、なぜか大抵顔がかわいいのだ。スタイルだっていいし、着ている服もどことなくおしゃれで、小学生ながらに垢抜けている子が多い。

 私は愕然とした。

 もちろんそれは傾向の話であって、中にはそうじゃない子だっていただろう。でも、クラスで一番目か二番目にかわいくて、先生からも信頼されているような子はたいてい料理クラブを選んでいる。これは絶対だった。

 どういう仕組みによってそういうことが起きていたのか、いまの私だったらたぶんそれなりにうまく説明できる。でも、当時はそうではなかった。ただ、そういうものなんだな、というふうに納得していただけだ。私はきっと、一生料理クラブに入ることが出来ないし、入ろうとも思えなのだろうな、という、絶望に似た確信を抱いて。

 その感覚を引きずったまま成長してしまったせいだろう。私は長いこと、「家庭的」という言葉とは無縁の生活態度を取り続けてきた。いくつになっても料理なんかよりお絵描きのほうが好きだし、掃除どころか自分の部屋の片づけですら苦手。それになにより、自由な時間は全部自分のために使いたい。家族のために何かするなんて、考えただけでうんざり。

 そういう生き方は改めるべきだと気が付いて、実際に行動に移し始めたのは二十歳を過ぎてからだった。まったくもって甘えている。過去の自分が恥ずかしい。でも、案外そういうひとは多いんじゃないだろうか。

 やってみると、家事炊事というものは想像以上に愉快な労働だった。

 拭けば拭いただけ汚れが落ちる、というように、掃除は成果が目に見えてわかりやすいから好きだ。お皿を洗ったり、洗濯物を畳んだりといった、ごく単純な作業に付き物の、頭をからっぽにしていられる時間のことを私は愛している。また、料理の楽しさが図画工作のそれに似ていると気が付けたのは、人生において大きな収穫のひとつだろう。だけどいちばん重要なのは、「自分がしたことで誰かに喜んでもらえるというのはすばらしいことだなあ」と素直に思えるようになったことだ。

 こうして私はすっかり過去の自分を覆した。案ずるより産むが易しとはまさにこのこと。料理クラブなんてもう怖くないぞ、である。そう思っていたはずなのだが。

 家事にまつわるあれこれのなかで、唯一苦手だなあと思うことがあり、いまだに克服できないでいる。といっても、あまり直接的な事柄ではないので、説明するのがやや難しいのだけど。それは、何気ない世間話の流れにおいてたまに飛び出す、ある言葉のことだ。「お母さんのお手伝いとかはよくするの?」「けっこうする方ですね。といっても家族の夕飯を作るぐらいですけど」「そうなんだ、きっといいお嫁さんになれるね」これだ。私はこれがどうしてもだめなのだ。

 実際、まあ、確かに、と思ってしまう気持ちもある。 男のひとのためにあれやこれやと手を動かしている時間というのが、そう悪いものではないと知っているからだ。 それこそ十代の頃は「女だからって男の身の回りの世話をしなくちゃいけないだなんて、最悪だ」などと考えていたものだが、いろいろと経験していくうちにかなり考え方が軟化してきている。それなりに抵抗は感じるものの、やってみると意外と楽しいのが「いいお嫁さんごっこ」なのだだ。

 でも、と、私は考える。

 料理や洗濯に限らず、私が誰かのためになにかをしてあげたいと考え、行動に移すとき、必ずしもその相手が男のひとだとは限らないように思うのだ。また、だからといって女のひとであるとも言い切れないし、恋人であるとも、家族であるとも断定することはできない。ひょっとしたら友人や知人の類であるかどうかすらも怪しい。相手の持っている社会的属性や、自分との間柄がどうであるかといったようなことはあまり関係なく、まず、熱烈に愛おしいという気持ちがあり、だからこそなにかしてあげたい、このひとに関することで自分の持つ時間を埋めていくのはとても愉快だ、と思えるのだ。これが自然な成り行きというものである。

 好き、だから心や時間を尽くしたい、尽くしたら感謝された、喜んでいる顔を見てもっと好きになる……そういったことを繰り返していくなかで、もしかしたらいつか誰かと婚姻関係に至るのかもしれない。でも、それはあくまでもおまけの要素に過ぎない。重要なポイントはもっと別にある。

 そこのところをすっかり飛ばして、「いいお嫁さんになれるね」とまとめられてしまうのは、いまいち釈然としないものだ。だいたいあってるのかもしれないけど、でも、そうじゃないんだよ、と訂正したくなってしまう。

 それにそもそもの話、家事炊事の能力などというものは、男女の別関係なく、誰にとっても必要な物だと思うのだ。女の子だから身に付けたほうがいい(いいお嫁さんになるために)、男の子だから身に付けなくてもいい(いいお嫁さんが全部やってくれるから)、などという考え方は、ちょっと古臭い。生活力のことを女子力と言い換えるような真似は、もうやめよう。世の中何が起こるかわからないのだから、男のひとだってひとりでも生きていける程度には家のなかのことをこなせたほうがよい。

 料理も掃除もできるようになったし、「男のひとのために」も「女の子だから」も単体だったらだいたい許せる。でも、そのふたつが同時に来てしまうと途端に駄目なのだ。こんなふうに駄々をこねながらでないと生活に立ち向かっていけない私は、やっぱりまだどこか「ふつうの女の子」と違うのだろう。

 料理クラブへの道のりは遠い。