春は夜だろ

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。 (第七官界彷徨尾崎翠

Ⅰ.仕事辞めた

 辞めたというよりは、辞めざるを得なかった。元は三ヶ月契約の短期派遣だったわけだし、それが延びに延びて半年も同じところにいたのだから、まあまあ頑張ったほうではある。常に人手不足の職場で忙しく立ち回りながら、同時に、はじめてのひとり暮らしをやっていかねばならない、という状況はなかなか精神的負荷が大きく、いつ折れてもおかしくないな、とは自分でも感じていた。ああいった出来事さえ起きなければもうしばらく踏ん張るつもりではいたが、いまとなってはこれでよかった気もする。

「この仕事をしていると人間不信になる」

 そんなふうに話していた子もいたが、私はわりと客室清掃の仕事を気に入っていた。

 確かに、お客さんの中にはとんでもない部屋の使い方をするひともいる。ドアを開けた瞬間目に入ってくるゴミの山、きつすぎる香水のにおい、ひねったまんまのお風呂の蛇口、なぜか忘れられている厚手のコート。私は当たったことがないけれど、たまに床が血まみれだったりとかもして、そういうときはよくパートのおばちゃんたちが騒いでいた。

 掃除する人や後の人のことを考えず、こういう使い方を平気でする人間が世の中にいるんだと知るたびに信じられないような思いになる、自分だったら絶対こんな風にはしないのに、という彼女の言い分もよくわかる。

 でも、私はむしろそういうしんどさを楽しんでいた。

 清掃のいいところは、成果が目に見えてわかりやすく、達成感を得やすいところだ。ゴミは拾えばなくなるし、埃は払えば落ちるし、鏡は拭けば拭くほどきれいに光る。

 生来きれいなものやうつくしいものが大好きで、だからこそ芸術、と思ってきた私だったが、あれはやっぱり才能が問われる分野で、いくら努力を重ねても評価を得るのはなかなか難しかったりする。

 大した努力をしてこなかった人間がこんなことを言っても失笑を買うだけかもしれないが、いままでの人生で何度も挫折感や敗北感を味わってきた私にとって、特別なセンスがなくても努力次第できれいな空間を生み出すことができる、というのは新鮮な体験だった。

  目の前の部屋が汚ければ汚いほど、私はやはりきれいに磨かれたものが好きなんだな、ということを強く実感したし、その上で努力が評価に直結してくれることが嬉しく、やりがいを感じていた。

 なんだかいかにも挫折した夢追い人、という感じがするため、このことは誰にも話したことがない。でも、頭の中ではずっとそういうことを考えていた。そして、だからこそ愚痴ひとつこぼさず頑張ることが出来たのだと思う。

Ⅱ.恋について

 最後の夜、職場の女の子とお酒を呑みながら、ふたりでGOING STAGEの曲を熱唱したり、恋について語ったりした。ぐちゃぐちゃの気持ちを抱えたまま聴く峯田の歌詞はうつくしい。

 私たぶんあの子のこと好きだったんだと思う、振られてもいいから告白すればよかった、と言いながら年下の男の子の名前を挙げてみると、絶対そうするべきだよ、という答えが返ってきたりなんかして、へんな話だが、私はそのときはじめて自分が恋していることに気が付いた。

 土壇場にならないとわからないこと、というのは案外多い。

 誰かと深く関わることに対し、すっかり憶病になっていた私にとって、この発見はちょっとした事件だった。

 まさかまた懲りずに人を好きになる日が来ようとは。

 翌朝、目が覚めると大急ぎで着替えて、その男の子に渡すチョコレートを買いにデパートへ走った。その日の昼には会社の寮を出る予定だったため、あまりにも時間がない。電車の中で好きな音楽を聴きながら、「こんなときに他人の音なんか聴いてる場合じゃないだろ」という謎の怒りを覚えてすぐに中断したりした。

 結局告白はしなかったものの、客観的に見て、あの時の私の行動はかなり痛かったと思う。

 でも、それでよかった。

 たった数日間でありえないほどたくさん泣いたし、職は失うし、恋はするし、親にも心配をかけるし、この歳になってまだこんなことを、と思うと恥ずかしい気持ちで何度も死にたくなったが、その反面、本来の自分に戻れたような気がしてなんだか清々しかった。怒ったり焦ったり泣いたりしている自分がおもしろかった。

 私の人生はまだ終わりじゃない、という感じがした。

Ⅲ.上京することにした

 仕事を辞めた後はいったん実家に戻ることになった。が、なんといっても居場所がない。早く次を決めなければ、とは思うものの、自分が今後どうなりたいのかわからず、ひさびさに引きこもりのような生活を送った。布団の中でゴロゴロしながら、辞めた職場で出会ったひとたちのことを思い出したり、携帯で地元の求人を検索したり、たまに起き上がって料理をしてみたり。相変わらず情緒はちょっとおかしかったが、それなりにのんびりできたと思う。

 そんな中、数カ月ぶりに再会した友人に、

「やってみたい仕事がたくさんあるんだけど、全部アルバイトなんだよね」

 と相談してみると、

「それって最高じゃん、アルバイトってことは気軽に挑戦できるんだから、夢全部叶うじゃん」

 という答えが返ってきた。なんというポジティブシンキング。

 もういい年齢だし、次働くのだとしたらなるべく正社員として、と考えていた私にとって、それは目から鱗の考え方で、ハッと胸を衝くようなものを感じた。

 独特な甘い香りのする古着屋さん、レトロな純喫茶、個人経営の古本屋、果てはラブホテルの受付からメイド喫茶まで。これまで自信のなさから諦めてきたいろんな職業に、いまだったら挑戦してみてもいいような気持ちが急激に湧いてきた。

 それで、であるならば東京のほうが職を探しやすいだろうから、ということで、取り急ぎ上京してしまうことに決めたのだが、正直なところ、不安なきもちでいっぱいである。

 あれをやってみたいこれをやってみたいと頭の中で考える分には自由だが、実際面接に受かるどうかはまた別問題であるし、受かったとして、本当にやっていけるのか。そんなことを考えていたら眠れなくなって、全然興味のない事務のパートに応募してしまったり。

 だが、それでもいったん心に決めてしまった以上、腹をくくってどうにかやっていくしかないのだなあと思う。もう大人なのだから。

 今年もきれいな桜が見れるといい。