スニーカー・コンプレックス

スニーカー買ったよ

 今年の春はいつもと違う装いがしたいと思って、試しにスニーカーを買ってみた。真っ白な本体と、ミントカラーの厚い靴底が他ではなかなか見かけないかわいらしさだ。自分は靴に関してはまったく無知な人間だが、どうやら有名なブランドのものらしい。実際、値段もそこそこした。前職を辞めたことで先月からがくんと収入が減ったため、購入する際に若干の迷いを感じたが、何度も何度も見返しているうちに、私にはこれしかないな、とつい確信してしまったのだ。

 以前はスニーカーにこだわるひとの気持ちがよくわからなかった(機能性重視の靴なんだからある程度動きやすければ見た目なんかどうでもいい)が、いざ自分がカジュアルな服装に挑戦してみると、いい歳をした大人がラフな服をダラっと着ていて足元まで二千円やそこらの適当な靴ではカッコウがつかないな、と思うきもちがちょっとだけわかった。綺麗めな服装だったら仮に安物であっても、状態さえよければ「きちんとしている風」に見えるが、カジュアルだとそうもいかないからだ。「単にだらしない」のか「おしゃれとして着崩してる」のか、あるいは、「適当」なのか「計算した上での抜け感」なのか、ちょっと見ただけでは判別がつきにくい。そういうとき、目立つところにみんなが知っているブランドのロゴが書かれていたら、「あ、このひとはおしゃれでこういう格好をしているんだな」とひと目でわかる……というか、わかるんじゃないかな?と、カジュアル初心者の私は考えた。もちろん、ブランド関係なしにスニーカー自体のデザインを気に入っていなければ何にも意味がないが、ここは抑えておいて間違いのないポイントではないだろうか。どうなんでしょうか。

カジュアルに対する抵抗

 そもそもの話をしていくと私は高校生以来「ズボン」「スニーカー」「パーカー」といったアイテムを進んで身につけたことがほとんどない。もちろん、親が適当に買ってきたものを近所へ出かけるのに着たり、仕事着としてそういうものを着たり……ということはこれまでもたくさんあった。だが、「自分の意思で」「あえて」スニーカーやパーカーを「選択する」といったことはここ十数年の間で一度もなかった。定番のアイテムといえばリボンタイのついたブラウスや花柄のフレアスカートだし、色でいうなら白や薄い青、緑、グレー、ベージュあたりが好き。自分でい 言うことではないがとにかく「女の子らしい」装いが好きで、年齢が上がって自由に使えるお金ができてからはずっとそういう服ばっかり買ってきた。

 それでどうして急に系統を変えようと思ったのかというと、まず、いまの自分に飽きたというのが大きい。服屋に行ってもかわいいと思うのはだいたいもう持っていそうなアイテムばかりで、買い物していても以前のようにワクワクすることが減ってしまった。そこでちょっと新しい風を取り入れてみようと思ったことが理由のひとつだ。

 でも、それだけではない。

 表面的にはただ今までとは違う服装にチャレンジしようとしているだけのように見えるが、これは実はコンプレックスとの戦いでもあるのだ。

 それがどういうことか説明しようとすると長くなるので、きっかけとなったエピソードを挙げることにする。

 いまの彼氏と付き合ったばかりの頃、「なんでいつも実家がお金持ちみたいな格好なの?」と言われたことがあった。

 なんで、と問われて第一に言えるのは「そういうのが趣味だから」でしかないのだが、その時私の心が感じたのは「着たいから着てるんだよ」というシンプルな感想ではなく、「もっとラフな服でいいんだよって言いたいのかもしれないけど、それは無理なんだよ」という、いささか屈折したようなモヤモヤした感情だった。

まんまるの子供でした

 あの時感じたモヤモヤを説明するのには私の子供時代まで遡らねばならない。包み隠さずいうと小学生の頃私は肥満児だった。というか、痩せたり太ったりを繰り返しつついまにいたるまでずっとゆるい体型をキープし続けている。でも、特に肥えていた時期というのがあって、それが小学校高学年ぐらいだったと思う。ちょうど、クラスの女の子たちがおしゃれとか恋愛を強く意識しだす頃だ。

 親は「子供なんて丸いぐらいがちょうどいいのよ」と言っていたが、私はハッキリと自分が基準よりもかなり太っていて、かつ顔もあんまりかわいくないことに気がついていた。「かわいくない自分が、他のかわいいみんなと同じように服やアクセサリーに興味を抱くのは恥ずかしい」。そういう思いから、なるべく地味な格好をしようとジーパンばっかり履いていた。二歳下の妹は華奢で、なかなか可愛い顔をしており、よくフリフリのワンピースなんかをお小遣いで買ったり、親に買ってもらったりもしていたが、私は自分の容貌を弁えていたのでそういうことができなかった。でも、本当は自分もそういうかわいらしい格好をしたかったのをよく覚えている。姉妹で容姿の良し悪しに大きな差があるのに、服の好みだけは似ているのが悲劇だと思った。

 もう少し成長してからは自意識がゆるんで多少好みの服を選べるようになったが、とにかく、この頃に「ジーパンやパーカーは消去法で身につけるもの」という意識が醸成されていく。

かわいい服を着られるようになって

 それから何年も経ってある時大幅なダイエットに成功した。嬉しかったので今まで着れないと思っていたかわいい系の服をどんどん買うようになった。襟が花の形に切り抜かれている古着のブラウス、水玉模様のお嬢様然としたワンピース、ピンク色のチュールスカート等々。足の形が綺麗になって嬉しいからとショートパンツや膝上のスカートも遠慮なしに履くようになった。長年コンプレックスにまみれて生きてきた私にとってなんの躊躇いもなくただ「かわいいから」というだけで服を選ぶことができるのは想像以上に嬉しく、一時期は毎日のように好きなブランドのホームページをチェックして次はあれを買おうかこれを買おうかと頭を悩ませていた。そこからまたしばらく経って一度かなり絞った体はすっかりゆるんでしまったのだが、あの期間を越えて以降はずっと「着たいと思った服を着る」というスタンスのままだ。サイズが合わないなどの理由で諦めることもあるが、基本的には自分が心惹かれた服を買うようにしている。かつてのように「これしか着れないから」と「消去法」で服を選ぶことはもうない。

 と、自分では思っていたのだが……。

好きな服を着てるだけだと思ってた

 彼氏に「なんでいつも実家がお金持ちみたいな格好なの?」と言われて、「もっとラフな格好でいいのに、それができなくてごめんね!」といささか屈折した感情を抱いたことは、ちょっとした自分再発見の手がかりになった。

 というのも、私はかわいい系の服を着たいと思って着ていたわけだが、その一方で、それ以外の系統の服に挑戦する勇気(自信)がなく、心のどこかでいつかやってみたいとは思いつつも、似合わないと決めつけてずっと避けてきたのだ。そのことを内心自覚していたからこそ、彼氏という他者から隠していた問題を鼻先に突きつけられてちょっとカチンときた。

 だが、いま思い返してみると新しい自分と出会ういいきっかけになったと思う。

 冒頭にも書いたとおり、「カジュアル」はいろいろと難しい。それは「気を抜く」と「手を抜く」の違いを考えつつどうバランスを取るか、という話でもあるが、もうひとつ私の中で大きな懸念事項になっていたのは体型のことだった。

 インスタグラムなどに流れてくる「ボーイッシュ」あるいは「ユニセックス」な服の着用写真を見ていて感じるのは、そういった装いによって却って炙り出されてくる女性の身体性だ。

 オーバーサイズのパーカーやスウェットの中で泳ぐ、華奢な体、そこから伸びる細くて柔らかい線の足、あるいは、少年のように髪を短くしていてもひとめで女性だとわかる大きな目。男でも女でもできるような服装だからこそ、それを着たとき、別の性との差がはっきり見えてくる。そしてだからこそ、より女性的な身体の持ち主がそういう服装をしていると魅力的に写るのだろう。その事実を無視して、全体的にまるくてころころした私のようなものが同じことをしても、それは「男のような女」になるだけで「おしゃれとしてのボーイッシュ」にはならない。昔の私みたいに「消去法のカジュアル」をやるのは誰にとっても可能だが、彼女らのように「あえてカジュアル」をやるのはなかなか難しいのだ。

 さてそれに引き換え、従来通りのフェミニンな服装はどうだろうか。元々は「好き」という感情だけで履いていたはずのスカート。だがよく考えてみると、実はパンツスタイルに比べて足の太さや短さがバレにくかったりする。コンプレックスを隠す作用があるのだ。それ以外にも、ヒールの高い靴を履くとスタイルが良く見えるとか、長い髪をおろしていると小顔に見えるとか。これらは全部、ヒールが低い靴はスタイルが悪く見える、短髪は顔の形を誤魔化せない、そして、だから手を出しにくい、と言い換え可能である。こういった例は上げ出せばキリがない。

 ちょっと太ったからといってフェミニンな装いをやめなかったのは、完璧ではない自分にコンプレックスを感じなくなったわけではなく、女性的な装いがもたらしてくれる作用を無意識のうちに利用していたからでもあると思う。

 女性らしい服を着ているからといって、そのひとが自分の女性性に自信があるとは限らず、むしろ、ないからこそ大袈裟に女体をデコレーションしている場合もある……。

 もちろん、好きだからこそそういう服を着ていたというのも事実ではあるが、そこから一歩踏み出して新しいスタイルに挑戦しようとしなかったのはある種の「惰性」だったな、と私は後になって気がついた。

それから

 かつて「選択的に」「好んで」していたかわいい系の服装が、いまや「消去法寄りの選択肢」になっていたことを知って、私は少なからずショックを受けた。している服装自体は変わっても、行動の根底にある動機はあの頃と違わないではないか。多少垢抜けても、彼氏ができても、結局、容姿にまつわるコンプレックスから脱することができずにいる。

 それでどうしたらいいか、と考えてみると、まず真っ先に挙げられるのは痩せることだ。だが、それだけでは根本の解決にはならない気がした。実際問題、これまでの人生において何度も痩せたり太ったりを繰り返しているわけだし、一時的に理想の体型を手に入れられたとしても、長続きしない可能性が高いからだ。そんなのはリバウンドをしないように気をつければいいだけの話で、それができないのは甘えだ、という考えもないではないが、結局、そういった自分のどうしようもない部分を受け入れられない限り、本当にコンプレックスを解消したとは言えないのではないだろうか?

 また痩せてみるのもいいが、大事なのは「〜だから似合わない」とか、「私は◯◯だからこういう格好をするべきではない」とか、そういうネガティブな自己規制取っ払って、まずはやりたいようにやってみること……、ではないなというような気がした。

 それでスニーカーを買ったわけだ。長い!

 かわいいなあとは思いつつも、あれこれ理由をつけて手をつけずにおいたジャンルの服を積極的に見るようにしてみると、この先老けていくばかりだと諦めていた自分にもまだいろんな可能性があるように思えてきて非常に楽しかった。

 スニーカーを買ったことがきっかけとなってつい財布の紐が緩み、白いパーカー、レモンイエローのシャツ風ジャケット、夏まで履けそうな薄手のデニムと、追加で続々購入してしまったが、それらを着こなす楽しみはあっても、後悔は一切ない。

 今まで着ていたフェミニン系の服は「アイテム単体でも既にかわいい」という印象のものが多かったが、カジュアルなアウトドア着の場合は、アイテムそものもにも魅力を感じつつ、「あくまでも主体は人間」という感じがして、変に気負うことなくおしゃれを楽しむことができる。

 どちらがいいという話ではないが、こういファッションとの関わり方もあるのか、と新しい発見があった。

 この歳にもなるとだいたい自分がどういう人間なのか固まってきてしまうものだが、だからといってあまり頑なになりすぎず、これからもいろんなスタイルに挑戦していけたらいいなあと思う。

 たかがファッション、されどファッションである。