PIKA PIKA(所感、また詩の目的するところについて)

 金森さかなの第1作品集『PIKA PIKA』の通販ページを公開しました。

 

 

https://osakanamarket.stores.jp/items/65611421a625e86e7d373afa

 

 全178ページ、送料別1200円。なかなか厚みのある1冊です。2020-2022年に詠んだ短歌や書いた詩を主に収録しています。

 詳しい目録などはリンク先に書いてありますので、そちらをご覧ください。

 ここでは私家版詩歌集を出すにあたっての所感、振り返りを述べます。

 主はあくまで作品そのものであり、本に刻まれている一字一字なので、別に読まなくても構わない記事です。後書きです。前書きでもいいです。要は何でもいいということです。

 

 

 夏に自分用のサンプルが仕上がってから、けっこうな時間が経ってしまった。

 すべてのページにカワイイシールを貼ったり、お気に入りの歌にマーカーを引いたり、隅っこにいまさらながら気になったことをメモ書きをしたり……、そうやって自分の本で遊びながら、誤字脱字がないかの再チェックも行った。たくさんの手間暇がかかってしまいなかなか大変だったけど、好きなだけ自分の言葉と向き合えたので、ただただよかったなあと思う。

 

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 おかげでどのページも全部かわいい。

 

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 表紙もかわいい。

 

 私がこういうことをやろうと思ったのは、まあ単純にそうしたらかわいいから、というだけの話でもある。もともと手書きで日記を書いたり、それをデコレーションしたりするのは好きで、ずっとやっていたので、その延長線のような感覚はあった。

 というのも、どうも私は自分の詩歌と日記をほとんど等価の存在として自分の中に位置づけているらしい。

 短歌をやっているとよく「わたくし性」という言葉に出会うが、私の場合はおそらくこれが特に強い作風だ。もちろん短歌や詩を書くときはある程度作為を働かせるし、個人的に書いている日記に比べたらそっくりそのまま等身大の自分という訳にはいかない。だがそうした"程度の問題"を抜きに考えた場合、やはり私は常に私の話をし、私の感情や体験を表現している。

 

即日のエイズ検査が陰性でやったねという名の海老よこせ(『21歳』/やまだわるいこ)

かけがえのないおじさんを守りたい地球最後の海老をほぐそう(『ヴァーチャル・春の海』/金森さかな)

 

 短歌を始めたばかりの頃、「やまだわるいこ」という筆名で活動していた。上に挙げた歌は、第1回石井僚一短歌賞で次席をいただいた連作のなかの一首だ。

 石井僚一氏といえば第57回短歌研究新人賞を『父親のような雨に打たれて』で受賞後、作中で亡くなった父が実際には生きていることが話題となり、そのことをきっかけにさまざまな議論が巻き起こった。短歌における「虚構」と「わたくし」問題である。

 当時私の作は現在よりもはるかに技術が磨かれておらず、知識も乏しかったため、かなり素直に「わたくし」方向へ振り切っていた。あまりにもそのままのことを言いすぎていて振り返りたくないような歌が連作の大半を占める。「虚構」、あるいは自己批評性、そういったものがほとんど何もない。

 だからそのような両極の議論の渦中にある方がこの連作を評価するのは、いまにして考えてみれば妙な話だった。当時ウキウキしながら賞の発表誌(『稀風社の貢献』)を読んだところ、やはり氏は選考委員の方々のなかで最も厳しい評を述べられており、悔しいながらもさもありなん、と感じたことを今も鮮明に覚えている。

 

 賞のこと、引いては創作活動全般とは関係なく、当時は精神的にギリギリの状態が続いており、「やまだわるいこ」としての活動は辞めてしまったが、あれから八年近く、ずっとこのことを胸に残したまま作歌を続けてきた。自分の中の無批判な態度や「わたくし」が強すぎる作風と闘い、実験的なこともいろいろやったと思う(私にしては!)。今回の作品集にも収録している『ヴァーチャル・春の海』や『吹きさらしのクマ盗難計画』はその一端だ。

 

 しかしいろいろ試行錯誤を重ねた上で改めて感じるのは、先にも書いた通り、自身が持つ「わたくし」の強さである。けっこう捻ったり嘘をついたりしていても、読んだ人には「素直な表現」なんて言われてしまう。そのぐらいストレートに「わたくし」が出やすい。

 これはもう受け入れるしかないなあと諦めつつ、自作の方向性を決定づけた出来事をもうひとつ思い返してみる。

 

 

 大学生の頃、衝撃的な出来事があった。毎回違った教授が自分の得意分野の入門的授業を行うオムバニス形式のコマで、ある日、ものすごくかっこいい白髪のおじいちゃんが登壇する瞬間を見たのだ。私はそのとき先生の長い髪を留めていたヘアゴムが蛍光イエローであったことを今も覚えている。

 先生は言った。「自分が好きな作品をどんどん掘り下げる。好きな作家が影響を受けた作家、さらにはその作家が影響を受けた作家……と繋げていくといちばん最後はどこへ辿り着くと思う?」幸運にも指さされた私は「古典作品」と答えた。しかしそれを聞いた先生は、「それもひとつの答えとしてはそうだ。でもいちばんは『自分自身』だよ」と言ったのだ!

 私は雷に打たれたようだった。

 大学入学以来、いろんな先生から「教養として本を読むことの大切さ」を解かれてきて、少々げんなりしていた心に風穴があいた。それからというもの、私はちょこちょこお勉強もしつつ、基本的には自分の趣味を最優先した読書を続けている。自分自身の真実にたどり着くために!

 

 それでその先生がたまたま現代詩の研究をしている方で、詩のゼミをやっていたから、私は詩を書き始めたわけだ。それまでは詩なんか読んだこともなかった。そう考えてみると私はひとめぼれによって詩を書き始めたようなものである。まあその話を詳しくすると脱線になってしまうのでよしておくが、なんてロマンチックで軽薄なんだろうか……。

 

 

 先生はまた、「本は汚しながら読みなさい」ということもよく言っていた。そこに書かれている言葉を自分の血肉とするために。

 今回、自分の作品集にシールを貼ったりしたのは、単に「かわいいから」というだけではなく、そういう影響もあった。繰り返し読み返しながらラインを引いたり装飾を施したりするする過程で、私は私の言葉を、感情を、丁寧に見返し、自分の中にもう一度内蔵したかったのだろう。

 

 

 つまり書く場合にせよ、読む場合にせよ、私は自分自身にたどり着くため、自分自身の魂を癒すためにその営みを実行している。あまりにもわたくし本位すぎて横暴だと感じる人もいるかもしれないが、そうでなければ他でもない「わたし」が書く意味、読む意味は感じないのだ。

 

 しかし考えて欲しいのは、これはあなた方の立場に置き換えてもそうだということ。私はこうして言葉と向き合うときの自分の態度にこだわっているが、その反面、表現した内容そのものに執着し独占しようとする気持ちはほとんどなく、むしろそこは完全に手放している。

 

 私は、私がこれまでいろんな言葉や芸術に対してしてきたのと同じように、この詩歌集も各々好きに読んで、好きに解釈して、私の言葉をあなた方のものにしていただきたい。私は徹頭徹尾私のためだけに、私の魂のためだけに詩を書いているが、その営みの果てにどこかで誰かとつながることを信じている。「あなた」の先に「わたし」がいたのと同じように、「わたし」の先には必ず違う誰か、「あなた」がいるのだ。

 本の中で「わたし」と「あなた」が出会う過程で、お気に入りの歌に線を引いたり、シールを貼ったりしてくれるならとても嬉しい。

 

 なんだかつらつらと偉そうなことを書いてしまい、上手く伝わるかどうか不安ですが、手に取っていただいた方にはお楽しみいただければと思います。

 

 

(2023/12/11)