PIKAPIKA

 先月末に誕生日を迎え、二十六歳になった。正直、あまり実感が湧かない。去年は「いよいよ私もアラサーになったのか」という、何ともいえない感慨があったが、今回はそういったわかりやすい区切りの歳でもないし、年齢がひとつ上がったからといって急に顔が老けたり物の考え方が成長したりするわけでもないので(むしろ退化した気がする)、そこまで感じ入るところがないのだ。強いていうならば、この歳になってもやっぱり自分が生まれた日というのはなんとなくハッピーだなあと思う。人から生誕を祝うための言葉をかけてもらえると、この世に生まれてきたことや、いまこうして生きてることを肯定されているかのような気分になる。今年は大好きな恋人が隣にいたので、尚のことそう感じたのかもしれない。朝起きた瞬間から夜眠りにつくまで何度も「お誕生日おめでとう」「生まれてきてくれてありがとう」と言ってもらえて、その度に、このひとと出会えて本当によかったなあと思った。ひょっとするとだが、誕生日を迎えた本人よりもはしゃいでいたんじゃないだろうか。

 当日はお互い仕事があったので、今度の土曜日にまた改めてお祝いをしてもらう予定になっている。

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 高校時代の親友とひさびさに会って、お互いの誕生日を祝いあったりもした。生まれがちょうど一週間違いなのだ。せっかくだしいいものを食べよう、という話になり、銀座にあるビュッフェのお店に行った。野菜が中心だったからかたくさん食べても気持ち悪くなることがなく、ちょうどいい満腹感で終われてよかった。写真撮り忘れたけどデザートのいちご生チョコが美味しかったです。

 友達が、「いちばんあなたっぽい花だと思って」と言いながらピンクの薔薇を一本くれたのが嬉しかった。

 さてさて、今年はどんな大人を目指そうかな。

Ⅰ.本業を考え直す

 いまの仕事をはじめてすぐの頃、「あまりに暇すぎてたまらない」「こんなに何もやることがないと自分が必要とされてない気がする」と恋人に愚痴を言ったら、間髪入れずに「いや、いい副業が見つかってよかったじゃない。あなたの本業は詩人でしょう、それとも占い師だっけ。読書家?体力も時間も本業のほうに使いなよ」と返されたことがあった。

 確かに私は趣味で詩を書いたり短歌を詠んだりタロット占いの勉強をしたり読書に精を出したりしているが、それを本業だと思ったことはなかった。なぜかと言えばそれもそのはずで、そういった行為によって金銭を稼いだことが一度足りともないからだ。

 であるにも関わらず恋人の発言に深く納得してしまったのは、自分の人生の第一義はなんであるかと考えたとき、真っ先に浮かんでくるのが日中のあれこれではなく、夕方家に帰ってきてからする、手遊びのような創作行為や楽しい読書活動だったからだろう。

 昼間の仕事はいくらかのお金になるが、言ってしまえば本当にただそれだけの話で、業務内容がいまやっていることと全く関係ないことにすり替わってしまったとしてもたぶんそんなに文句は出ない。こだわりがないからだ。それは生活のためにやっていることであって、魂のためにやっていることではない。文章や詩を書くこととは明らかに行為の重要度が違う。

 前の仕事を辞めてからというもの私はかなり楽をしていて、最初は罪悪感のような気持ちすら抱いていたのだが、いまとなってはこれでよかったのだという思いのほうが強い。

 毎日のように五首でも十首でも短歌を詠んで、暇があればこうして長文のブログを書き綴り、月イチペースで読書会をしたり、なんらかの締め切りに間に合うよう原稿を仕上げたりする……、ずっとそういう生活に憧れながら生きてきた。いまようやくそれが実現しようとしているのだ。

 都内のホテルに泊まり込んでひとり百首会をしたり、毎年必ず賞に出す連作を詠んだり、そういうものを人に見せて感想をもらったり。やりたいことはいろいろある。せっかく筆が乗っている時期なので、二千字から五千字程度の小説を書く練習だってしたい。読みたくて読めていない本だって山積みだ。

 文芸関係のことだけに絞って考えてみてもこれだけやりたいことがあるのだから、どう考えたってサービス残業なんかで時間を使い潰している場合ではない。

 恋人のおかげで人生の本筋を思い出すことができて、そして、それに即した生活を実現できて、本当によかったなあ、うれしいなあと心の底から思う。日々いろんな面で助けてもらっているし、恋人には感謝してもしきれない。

Ⅱ.恋人といっしょに楽しく生きる

 そういう素敵なことを言ってくれる恋人とこれからも楽しく生きていきたい。これは別に今年に限った話ではなく、来年もその次の年も、十年後だってそうだが、ひとつの節目に立つにあたって改めてそう思った。

 一日が過ぎる中で起きたいろんなことを報告するのも、ご飯を食べて美味しいねと言い合うのも、考えてみれば本当になんでもないことなんだけど、恋人とだと特別なことのように思えるのだ。共に過ごす間に降り積もってゆく一瞬一瞬をこれからも大切にしていきたい。

 美味しい珈琲の煎れ方を研究したり、買ってきたスパイスを調合してカレー粉を作ったり、いろんな入浴剤でバスタイムを楽しんだり、ふたりでやってみたいけどまだ充分にできていないこともまだまだたくさんある。

 東京中のありとあらゆる街にデートの思い出を作って、飽きたら地方に移住するのもありだし、二人同時に仕事を辞めて長旅へ出るのもいい。こういう自由な人生を共に思い描ける相手だから楽しい。

 このままずっとお互いを好きでい続けて、おはようといってきますとただいまおかえりおやすみを死ぬまで繰り返せたらいいのに、と最近よく思う。というか、恋人とセットの人生ならもはや死にたくない(!)。永遠に生きたい。そして永遠に生きてほしい。大好きなので。仮に死んだら来世では同じ家の飼い猫になりたい。

 いっしょに生きるからには楽しいことばかりではなく、時には喧嘩もするし、話し合いが必要になることもあるだろうけど、どんな時でも決して誠実な気持ちを失わず、信頼を壊さないよう努力していきたいと思う。こんなに好きになれる人は他にいない。

Ⅲ.自分をケアする  

 去年は非常に仕事が忙しかった。家に帰るとすぐ倒れるようにして眠っていたので、あまり自分の体を労ってあげることができなかったように思う。精神面でのストレスもかなり強く、モンスターエナジーを割り材にして度数の高い缶チューハイを毎晩のように飲んだり、紙巻きたばこを常習的に吸うようになったりと、わざと自分を痛めつけるような行動を取ることも少なくなかった。今の恋人と出会って生活に楽しみが増えてからはかなり心持ちも変わっていったが、それでも日々余裕がないことに変わりはなく、疲れすぎていてお風呂に入るのが苦痛だったり、せっかくの休日を寝て過ごしてしまったり……そういうことの繰り返しでちょっとずつ自分が磨耗していっているのをひしひしと感じた。生活に追われて仕事以外のことに手が回らなくなるなんて、ある程度の責任を任されている社会人だったらよくあることなのかもしれない、あるいは、単に私の自分を律する力が弱いのかも、とも思ったが、どちらにせよ、たいしていい給料をもらっているわけでもないのにこんなに日々ダメージを受けていては割に合わない。

 それで今後もプレッシャーに耐えながらそういう生活を続けていくべきかどうかで悩んでいる時に、恋人が自分に頼っていいと言ってくれたので、ついその言葉に甘えるような形で辞めてしまったわけだが、この選択は何度考えてみても正解だった。

 最初に書いた通り、趣味に割く時間が増えたことももちろん嬉しかったが、いちばん根源的な喜びを感じたのはバスタイムを楽しむ余裕ができたことだ。

 トリートメントを塗った後に少し時間を置いたり、お風呂から出た後全身をきちんと保湿したり、たまにだけど、気になっていたパックを使ってみたり……。どれも本当にちょっとしたことなのだが、疲れ果てている時には絶対にできない。

 そういうことの積み重ねで実際に肌や髪が綺麗になっていくかどうかはさておき、自分の体にそれだけ時間と手間をかけられるようになったという事実自体がまず嬉しかった。いまでは毎晩お風呂に入るたびに、自分を大切にするとはこういうことか、と身をもって感じている。今まで散々放ったらかしにしてきたぶん、今後はもっと丁寧に体のことをケアしていきたい。

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 というわけで、今年の自分への誕生日プレゼントはこんな感じになりました。イオのヘアマスク、気になってたけど高くて手を出す勇気がなかったんだよね。短歌関係の本も、読みたいのに読めずにいるやつが増えていくばかりなのでこの機会にまとめ買いした。いっぱいお金使っちゃったけど、たまにはいいでしょう。

 魂までぴかぴかになりますように。