今日は私がいないから

 恋人と大喧嘩した。夜、転職について相談していて(またするのか…)、なんとなく相手の物言いが突っつけどんというか、頭ごなしにいろいろ決めつけて私の選択や考えを否定しているように感じたので、ついカチンときていたら逆に怒らせてしまった。「俺は間違った指摘はしてない」「ちゃんとした考えがあって言ったことだ」「さかなちゃんの普段の振る舞いや、客観的に見た得意不得意と、目指している職種に矛盾があると感じたからそう言っただけ」と言われ、確かにそれはそうなのかもしれないけど、だからといって私の気持ちや考えをはなから無視して発言してもいいわけ?問題にしてるのは会話の内容じゃなくてあなたのその態度なんだけど、とこちらもヒートアップ。最初に腹を立てたのは私のほうなのに、なぜか恋人の怒りの方が激しく、大声で理詰めされ、本気でいやんなってしまった。元々疲れていたため途中で話を切り上げ、不貞寝モードに入ったが、怒りで目が冴え渡っていてとても眠れない。恋人もどうやらそのようで、しばらくは暗闇の中携帯をいじったりしていたが、どうにも感情が収まらなかったらしくそのうち大雨の中外へ飛び出していった。心配だけど知らん!恋人の気配が部屋から消えたことでようやく少しホッとし、体の緊張が溶けていく。眠い頭で今後のことを考えて、とりあえず明後日の土曜に予約していた美容室をキャンセルすることにした。元々その日は別行動を取ることになっていて、私は朝からばっちりお洒落をし、美容室で髪を染めて、午後はアフタヌーンティーに行く予定だったのだが……。恋人の怒りがあまりに激烈だし、私もかなり苛々しているので、もしかしたらしばらく家を出ることになるかもしれない。てか、別れるかも。そんな状況で美容室へ行くためだけに家の近くまで戻って来るのはなんか変だし、道でばったり会っても気まずいから、それだけはなしにしよう。ついでにアフタヌーンティーの予約もキャンセルしようと思ったのだが、こちらは店舗に直接電話をかけなくてはいけないみたいで、それはめんどくさいから渋々行くことにした。


 こんなときにアフタヌーンティー!ばかみたいな話だけど本当に私らしい。

 

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 次の日、目が覚めてみると私はやっぱりまだ怒っていた。昨日言われたことが尾を引いており、別れたいな、というより、別れたあとどのような手続きが必要になっているかですぐ頭がいっぱいになる。もうあなたに話すことは何もない、という言葉が脳みその中でぐるぐる回っているようだった。むかつく、むかつく、むかつく。


 いつも通り顔を洗って、歯磨きして、制服に着替えて、家出の準備をする。ちょうど荷造りが終わった頃、昨夜は一睡もできなかったという恋人に話しかけられてまたも口論に発展、そして激怒。「いままでもさかなちゃんに理不尽に怒られて、その度に俺が謝ってきたけどさ」は〜?これまで何で私が怒ってるのかよくわかんないまま謝ってたわけ?あなたの行動や発言に傷ついたり不愉快さを感じたりしたから怒ったのに、あくまで自分に原因があることは認めないんですね。ありえない。


 で、本気で家出することに決めた。


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 その日は台風が来ており、おまけに都民の日で休みを取る人が多かったため、ろくな仕事はなかった。雑用で繕い物を任されて、一針一針刺しながら昨日の喧嘩に思いを馳せる。私は間違っていない、と強く思う反面、確かにこれまでは喧嘩してもだいたい向こうが先に謝ってくれたし、たまには大人にならなくちゃいけないのかな、と感じたりもした。

 それから、一時はそういう考えもあったが、これで別れてしまうのはちょっと違う気がする。同棲しているからいろいろめんどくさいのもあるが、やっぱり特別好きな相手だし、たまの喧嘩を除けばものすごく仲がいいし、もうすでにお互いの親にも会っていて、だからこの関係には責任、というものがある。私はたいそう極端な人間だから、いままでの恋愛だったら百パーセント別れているような場面だけど、今回に限ってはそれじゃダメだと思った。人として、ちゃんと歩み寄らなくてはいけない。そうでなければいつまで経っても同じことの繰り返しだ。


 とはいえお互いものすごい怒りようだったから、これで見放されてかえって向こうから別れを切り出されたらどうしよう……。


 グツグツ煮えたぎる怒りの波に耐えながらもそんなことを考えていたらいつの間やら午後だった。恋人よりは眠れたはずだけど、どうにも寝不足だったらしく、気を抜くと瞼を閉じてしまいそうになる。いつもお菓子をくれるおじいちゃんに栗饅頭ともみじ饅頭を二個ずつもらって、いつもだったらすぐに食べ尽くしてしまうところだけど、今日は飢えに備えて大切に取っておくことにした。


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 暇を見てその日泊まるビジネスホテルを予約しておいた。退勤後、コンビニに立ち寄って夕飯と酒と煙草を買う。猛烈に煙草を吸いたい気分だったのでわざわざ喫煙可の部屋を選んだのだ。


 ホテルの最寄駅に着き、「おじいちゃんにもらった饅頭、制服のポケットの中に忘れてきたな……」なんて思いながら歩いていると、仲良しのフォロワーから「良かったら通話しませんか」という内容のラインが来た。実は昨日も同じ誘いが来ていたのだが、彼氏と喧嘩していて気がつかなかったのだ。当然、喜んで誘いに乗ることにした。チェックイン早々服を脱ぎ捨て、晩酌の用意をしつつもかかってきた電話に出る。怒りの他に若干の寂しさや心細さがあったので、心の通い合った他者と言葉を交わせるのはほんとうに嬉しかった。夫婦喧嘩は犬も食わないという諺もあることだし、愚痴に付き合わせるのは申し訳ないから控えるつもりだったのだが、つい恋人に対する文句がぽつりぽつりと出てくる。「彼氏の言ってることが間違ってないっていうのもわかるけど、感情的になってる時にああやって理詰めで返されるときついっていうか」「まあでも、一日二日ならともかく、一週間とか二週間ってなってくると良くないので、明日あたり仲直りしようかなと思ってます。それか別れるか」というと「極端ですね」と笑われた。確かに、と思いつつ、この場合における中間の選択肢が何も考え付かない。 


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 フォロワーが「眉毛を整えようと思っている」というので「いいじゃんいいじゃん」と返すと、「でも、眉毛が全部なくなるかもしれないし」といわれ、「なくならないでしょ、どっか(眉毛サロン的な)でやってもらうんですか?」「いや、自分でやる予定です」「それはなくなるかもしれないな」という会話になったのがおもしろくて印象に残った。あと、ささやかな秘密をひとつ打ち明けて、見えもしないのにウィンクしたりした。


 四十分ぐらい話したところでけっこう酔いが回ってきた(私は酒が弱い)ので、今日のところはおいとまさせてもらう。食べかけの揚げ出し豆腐とたこ焼きをすべて吸うように体内に入れ、煙草を二〜三本吸ってからベッドに潜り込んだ。が、体は疲れているはずなのになかなか寝付けない。仕方ないので風呂を沸かしてしばらく湯に浸かる。それでようやく体がリラックスモードに切り替わった。


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 日付が変わる直前に目が覚めると、着信が一件入っていた。「どこにいるの?迎えに行くよ」というメッセージも一緒に来ている。ちょっとホッとしたし、嬉しかったが、まだ「ばかやろ〜」という気持ちがけっこうあった。いま帰ってもきっとまた喧嘩になるだろう。未読のままもう一度寝の体勢をとる。


 それにしても、LINEが来るまでは「今回は自分から謝らなきゃな」と思っていたのに、いざ向こうから歩み寄られると「もう一泊ぐらいしようかな」に気持ちが変わってしまうのだから、人間の心理とは不思議なものだ。


 ただ寝泊まりするだけではつまらないから、明日は新文芸坐のオールナイト上映でも行こうかな、と思って調べてみると、『ビバ!チバ!惜別のソニー千葉ナイト』うーん千葉真一特集か……。


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 翌日、目が覚めてみると体がだるかった。あれからまた六時間も寝たのに。なんとなくすぐ起きる気にはなれず、八時手前ぐらいまでダラダラベッドに潜って過ごす。風呂に入る前に煙草を吸って、風呂入って、また吸って、化粧して、電気ケトルで湯を沸かし、白湯を飲んだ。昨日けっこう食べたはずなのに、気がつけばお腹が空いている。池袋の駅が近かったので、昔家出したときにも行った『珈琲専門館 伯爵』でモーニングを食べることにした。


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 窓際の席でサンドイッチを食べながら、本を読んだり、外の往来を眺めたりした。充電がなくなるとまずいので、携帯は必要なとき以外極力電源をOFFにしておく。代わりに、いつもはバイト先に置きっぱなしにしてある留め金の壊れた腕時計をテーブルに置いた。スマホに依存しきっている身で言うことではないが、時間だけ気にしていればいい、というのはなんともいえず気分がいい。


 私より若くてかわいくて痩せてる子たちがガールズバーの看板持って、誰にも声をかけられないままただひたすら立っている様子を眺めながら、謙虚さ、ということについて考えた。私は不遜な人間ではないだろうか。もっと恋人から選んでもらっていることに感謝して、素直になったほうがいい気がする、でも、いまはまだできない。


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 予約してあったアフタヌーンティーのお店に行くため、港区方面へ向かう。怒りが弱まってきたのと同時に、だんだん、鬱っぽい気分になってきているのを感じた。ほんとうはもっとお洒落して行きたかったな、と思いながらゆりかもめに乗る。ちょっと嬉しい。でもやっぱりつらい。


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 人生初のアフタヌーンティー。秋らしい内容で、かぼちゃのサンドイッチや紫芋のパウンドケーキが美味しかった。飲み物はアールグレイティーのアイスに。

 正しい食べ方がいまいちよくわからず、スコーンを手で取ってから後ろにミニトングがあることに気づいたりして恥ずかしかった。


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 小さくてかわいいスイーツを一個一個食べながら、また本を読んだり、自分の考えを整理したりする。アフタヌーンティーというとなんとなく敷居が高いイメージがあったけど、やってることの内容としては居酒屋とそう変わらない気がした。ちょっとずつ出てくる食べ物(おつまみ/スイーツ)をつまみながらゆっくりドリンク(酒/紅茶や珈琲)を飲むという、おおよその共通項がある。価格帯も案外同じぐらいだ。こんなことならもっと早く体験しておけばよかった、と思った。

 

 この時にはもうだいぶ頭が冷静になっていて、恋人の発言を受け入れよう、という向きに気持ちが傾いていた。物凄い勢いで言われたものだから、そのときは反発しか抱けなかったけれど、ひとつひとつその内容を思い返してみるともっともだと感じることが多い。

 特に、「人が好きだから人と関わる仕事がいいかも(介護・学童)」という発言に「いや、さかなちゃんそもそもそんなに人好きじゃなくない?」と返されたのはいま思うと笑えた。人が好きだという気持ちはほんとうなのだが、おそらく接客に活かせるタイプの「好き」ではないのだろうな、というのは自分でも納得するところだった。私は他人の心の中にある内的な美しい動きを垣間見たり、個人の性格や嗜好にチャーミングな部分を見い出したりすることは好きだが、双方向のコミュニケーションは苦手だし、変に秘密主義的なところがあって中々積極的な自己開示をしたがらない。愛嬌があるとは言われるし、際立って嫌われるような部分もないが、かといって人前に出てハキハキ喋れるようなタイプではないのだ。


 他、「本気でやるなら検索してすぐ引っかかるような求人を当てにしちゃダメ、転職サイト使ってエージェントつけなよ」というアドバイスもその通りだと思ったし、「営業はどうかな?」に「絶対向いてないからやめときなよ、あんなの黒光ツーブロックゴリラの世界だよ」は偏見が過ぎるもののまあ向いてないのは当たってるだろう。

 また、私の中ではそれほどまでのことではないと認識していたのだが、「あなたはマネジメントの経験もあって、人の上に立つということをしてきたんだから、人手不足のやばい求人受けたら絶対すぐ来てくださいって言われるよ」と言われたことが自信に繋がった。その流れで「それでしんどくなって辞めてってなったらまた同じことの繰り返しだろ!」と怒鳴られたのは置いておくにしても。


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 恋人が好きなモンブランを掬って食べながら、あのひとはこういう雰囲気あんまり好きじゃないだろうな、と思った。そして、だからなかなか来る機会を作れなかったのだ、とも。それならそれで今回のようにひとりで来ればいいだけの話なのに、自分の嗜好を満たすよりも恋人と過ごす時間を優先したかった。


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 最後に出てきたジェラート。予約時はこんな状況になると思っていなかったから「へ〜!プレートに文字書いてもらえるんだ!じゃあ○○ちゃん(彼氏の名前)だいすきにしよっと♡」なんて思って頼んであったのをすっかり忘れていた。思わず笑ってしまう。ばかだなあ。


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 アフタヌーンティーを食べ終わった後、すっかり穏やかな気持ちに戻った私は、しばらく港の近くをぶらぶら散歩することにした。喧嘩をした日とは打って変わっていい天気で、日差しが暑いくらいだ。潮のにおいを感じながら、水が凪いでいるのを見つめる。周囲を歩いている人たちはどことなく品がよくて、身綺麗で、お金のにおいがした。普段はあまり馴染みのない雰囲気だが、今日に限っては嫌ではない。


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 特に意味もなく駅のベンチに座って、しばらくぼーっとしていた。ふと気になって携帯を見るとまた着信が入っている。そろそろ仲直りをしなくてはいけないな、と思った。夜になったら「ごめんね」と送るつもりだ。

 


 あと一泊だけしたら家に帰る。