どうせ美しい過去になる

「なぜなら、すべて神聖なものは夢や思い出と同じ要素から成立ち、時間や空間によってわれわれと隔てられているものが、現前していることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、いずれも手で触れることのできない点でも共通しています。手で触れることのできたものから、一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないような美しいものになる。事物にはすべて神聖さが具わっているのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁になってしまう。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを潰し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持っているんですから」(三島由紀夫『春の雪』/新潮文庫p.53)

 

 帰国したばかりの頃、旅の思い出を上手に振り返ることができなかった。私の胸に残っていた余韻があまりにも美しすぎたせいだと思う。何を語るにせよ、この記憶に釣り合うほどきれいな言葉はこの世に存在せず、その時々で掴んでいた感覚や目の前に会った光景を的確に描写することはひどく難しいように感じた。当時は写真を見返すのも躊躇ったほどだ。いまさらそんなことをするのは遅すぎると思った。本当に大切なことはまさにその過ぎていく一瞬、一瞬のうちにしか宿らない。シャッターを切ったところで時が経てばやがてそれは薄れ、いつかは消えてしまう。そうわかっていながら、形容しがたい魂のふるえが画面の奥深くへ吸い込まれていくのを黙って眺めているのは辛かった。

 

 

 あれから数カ月が経ち、そういった心情がいまも続いているのかというと、そんなことは全くない。むしろここ最近は旅のことばかり思い出し、考えている。意識してそうしているつもりもないのだが、通勤の電車の中、夜寝る前、あるいは散歩しているとき。いつどこにいてもふとした瞬間、遠くの国で目にしたおもしろいものや美しいものの姿が頭に浮かんできて、ついうっとりとしてしまうのだ。いやなこと、上手くいかないことだってたくさんあったはずし、特に後半は早く帰りたい気持ちが強かったはずなのに、そういった負の記憶はきれいに搔き消され、よかったことばかりが思い出されるのだから自分でも現金だと思う。

 

 でも、仕方がないでしょう。

 エーゲ海に沈む夕日、トルコの渓谷、アルバニアの山頂で食べたミルクチョコレート、スペイン語で一生懸命道を教えてくれたおじいさん、フランスの田舎道を二人で歩いたこと……どれも一生に一度と思えるほどのすばらしい経験だった。私はまだ若いのに、これからの人生であれよりすばらしい数か月間を生み出せる自信がない。

 

 

 そういった美しい思い出の数々に恍惚とするあまり、時折「現実の価値がわからない」と感じることさえある。

 ここでいう「現実」とはすなわちこれから自分を待ち受けている労働や通勤電車の憂鬱さ、望んでいない煩雑な人間関係のことであり、「非現実」とはここではないどこか遠くの世界にある広く開かれた景色、見ず知らずのひとから施される親切や愛情、食べたこともない美味しい料理のことなどを指す。

 私は最初、それらを単純に「旅人として生きる時間」と「労働者として生きる時間」に分けて捉えていた。しかし、この認識には何か重大な拾い忘れがあるように思える。頭に引っかかるのだ。

 

 いつものように夫と語り合いながら、私はそれが何なのかを探ることにした。

 

 

 ヒントはインドにあった。始めたばかりの仕事をもうやめたいと嘆く私に向かって、夫が「そしたらおれも夏頃一ヶ月ぐらい休みを取るから、いっしょにインド行こうよ」と言い出したのだ。一瞬、それもありだな、と思った。でも、すぐに考え直す。私たちは去年もろくに働かず、半年近く海外を遊び歩いていたというのに、そんなにフラフラしていてもいいのかしら。何より、今の私にはここでやりたいことがいろいろあるのに。

 

 そう考えていて、ふとひらめくように気が付いた。確かに、「非現実」を「旅」とするのであれば、いますぐ「仕事」という名の「現実」を投げ出して、また二人で放浪記を始めればいい。実際、インドは行ってみたい国だったし、他にも興味がある国、再度訪れたい国は山ほどあった。カミーノの巡礼にいたっては毎年やってもいいとすら思っている。でも、そういうことではないのだ。私が現在志向している「非現実」は、単純に海外のことをいうのではない。

 実はそれは、結晶化してもう触れられないものとなってしまった「過去」のことを指している……。

 

 「再度旅に出る」というのは、あくまでも未来に目を向けた考え方であり、逃避の仕方だ。そうではなく、私はただ、「いま・ここ」から遠く隔てられた神聖な記憶の片隅に心を広げ、うっとりと天を仰いでいたいだけなのだと、冒頭に挙げた『豊饒の海』の一節を思い出しながら結論づけた。

 

 

 「現実の世界」すなわち「現在」では、嫌なことや避けて通りたいような出来事がたくさん起こる。少なくともそういう風に見える。

 それと同時に、「過去」は常に美しい。不要な染みはぼやけてよく見えなくなっており、傷や痛みにはどこか甘い香りが伴う。

 このことは、その時の自分が旅をしていようと、つまらない仕事に日々の時間を奪われていようと、実は関係ないのではないだろうか?

 

 そう考えはじめたとき、あの旅で養われた人生に対する美的感覚がようやく現在に活きてくるのを感じた。

 

 

 どんな日々もいつかは過去になる。何らかの美しさを伴って記憶に残る。

 そしてそうであればこそ、私は出来るだけ辛抱強く歩き続け、振り返った先の景色を常に更新し続けたいと思った。変わり映えない日々を繰り返していく中で、いつかまた私の認識が、私の目を見たこともないような美しいものと出会わせ、再発見させてくれるのを待っている。